土浦市教育委員会文化振興課

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国宝 短刀 銘 筑州住行弘

 平造【ひらづくり】、三つ棟、小振りで僅かに内反り、重ねはやや厚い。鍛えは板目に杢【もく】交じり、刃寄りに流れ、地沸【じにえ】厚くつき、地景【ちけい】入り、よく練れて、金色明るい。刃文は小湾【このた】れに互【ぐ】の目、尖り刃風交じり、フクラあたりは逆がかり、足入り、匂い深く小沸よくつき、下半砂流【すなが】し・金筋・ほつれなどかかり、区下【まちした】は焼込み風となり、匂口【においくち】冴える。帽子は乱れ込み突き上げて先尖り、表裏とも返り深く焼き下げる。茎は生【う】ぶ、先栗尻、鑢目筋違【やすりめすじかい】、目釘孔1。作者行弘は筑前の左(大佐と呼ばれる)の門人。裏銘に「観応元年八月日」とある。観応元年は、西暦1350年である。この短刀は、地刃頗る健全味あり、銘も古雅にして、この一派中の優品である。土浦藩主土屋家の旧蔵品である。

国指定重要文化財 旧茨城県立土浦中学校本館

  明治37年(1904)7月に上棟、同12月に竣工した。ゴシック様式を基本とした意匠で、平面は左右対称の凹字型をなす。当初は天然スレート(粘板岩・玄昌石)葺であった。壁はドイツ下見板張りである。旧制中学校では最初に国重文となった。  設計者は、辰野金吾の弟子で茨城県技師の駒杵勤治【こまきねきんじ】、26歳の時の作品である。県内に現存するものでは他に旧太田中学校講堂(国重文)、水戸商業学校旧本館玄関(国登録文化財)がある。  明治の近代化政策の一環として教育施設の西洋化意匠が図られる中で、洋式建築の設計図と在来の木造技術が創り出した象徴的な建物である。  平成30年3月に耐震補強工事が完成した。

国指定重要文化財 絹本著色高峰和尚像

  袈裟をつけた禅僧の全身または半身の肖像画を頂相【ちんぞう】という。  高峰原妙【こうほうげんみょう】(1238~95)は中国江蘇省蘇州府呉江県の人、俗姓は徐、杭州天目山西峯の獅子巖で弘法に勤めた。獅子・大覚二寺を開き、弟子数百、受戒者数万人に及んだといわれる。  この像は「有髪【うはつ】の御影【みえ】」と呼ばれ、長髪で口辺に八の字髭を蓄えた特異な容姿は、在野を貫いた強い個性を写している。色彩は控えめで線は強く、一風変わった法衣に施された強い隈取りが印象的である。上部に絶岸可湘【ぜつがんかしょう】と王剛中【おうごうちゅう】の賛がある。  この絵は復庵宗己帰国後、禅版と共に幻住庵の珂月禅師から贈られたと伝えられる。中国元代の代表的肖像画である。

国指定重要文化財 絹本著色復庵和尚像

 復庵宗己【ふくあんそうき】は弘安3年(1280)に生まれ、俗名を宗儀という。父は小田宗知だが、小田治久の猶子となったと伝えられる。松島円福寺(のち瑞巌寺)に学び、入元して中峰明本の教えを受けた。帰国後、後光厳院や足利尊氏の招きを断って、高岡に法雲寺を開き、延文3年(1358)この地に没した。院より大光禅師の諡【おくりな】を贈られた。  この絵は「松下経行【しょうかきんひん】の御影【みえ】」と呼ばれる頂相【ちんぞう】で、黒褐色の法衣に茶色の袈裟をまとい、両手を袖中にして松の木の下を歩く、修禅生活の姿を描く。頂相とは、袈裟をつけた禅僧の全身または半身の肖像画のことである。筆致は繊細で、和風の平坦な趣が強い。  上部には法嗣龍江善沢【りゅうこうぜんたく】に与えた自賛があるが、寺伝では、絵はその龍江和尚の制作とされる。南北朝時代の代表的な頂相である。

国指定重要文化財 絹本著色中峰和尚像

  中峰【ちゅうほう】(1263~1323)は道号、法諱は明本、俗姓は孫。杭州路銭塘県の生まれ、高峰に参禅してその法を継いだ。五山の住持に招請されたが断り、定居なく幻住と自称した。智覚禅師と諡【おくりな】され、また普応国師と加諡【かし】された。「天目中峰広録」(30巻)がある。  この頂相【ちんぞう】は、まばらな髪に無精髭を生やし、ゆったりと法衣の襟を開いて曲彔【きょくろく】に座して、払子を手にする。傍らの2僧がざくろを割っているので「柘榴【ざくろ】の御影【みえ】」と呼ばれるが、背景に屏風と高欄を配した珍しい図様である。頂相とは、袈裟をつけた禅僧の全身または半身の肖像画のことである。  中国元代の地方仏画師の作であろう。上部の自賛は中峰の真筆ではないとされる。法衣と共に、天目山の善栄禅師から贈られたものである。

国指定重要文化財 木造薬師如来坐像

  薬師如来は薬師瑠璃光如来・大医王仏ともいわれ、東方浄瑠璃世界の教主で、病や苦悩を救う仏として信仰される。  この薬師如来像は、カヤの寄木造、漆箔であるが、箔は剥落している。目は彫眼である。頭・体とも前後 矧【は】ぎ、三道下で割首し、左肩外側も矧ぐ。右手は肩・肘・手首を矧ぎ付ける。左手は袖を矧ぎ、手首を挿す。膝前は1材を横に矧ぐが、裳先は欠損している。肉髻【にくけい】は大きく、螺髪【らほつ】は細かく整っている。  平安後期の作で定朝様式であるが、地方的特色も見られる。真言宗常福寺の本尊である。

国指定重要文化財 銅鐘

  小田氏の祖八田知家が三村山清冷院極楽寺の鐘として、建永年間(1206-1207)に作らせたものである。後に藤沢に移され、戦国末期藤沢城落城後、土浦城内に移された。江戸時代には城内本丸に置かれたが、明治17年(1884)極楽寺の後身とされる等覺寺へ移された。  鐘は鋳銅製、上下帯無文で、乳は4段5列、撞座は2個である。県内の古鐘中最古の銘文をもつ。鎌倉時代の鐘として端正な姿の名品である。  銘文は型なめで一部不明だが、次の通り。 「鋳顕極楽寺鐘  奉・・・  大将(軍)・・・   建永・・・筑後入道尊念」

国指定重要文化財 銅鐘

  鎌倉時代建治元年(1275)源海上人が大勧進となって作られた。鋳銅製である。鐘は上下帯無文、乳は4段4列、撞座は2個ある。鋳物師は丹治久友・千門重延の2人。丹治久友は鎌倉長谷高徳院の大仏鋳造の一人として知られ、吉野金峯山寺蔵王堂銅鐘のほか多くの作品を残している。この鐘は鎌倉時代の典型的な形を示す名品である。  銘文は陰刻で、次の通り。  「大日本國常州信太庄般若寺    建治元年乙亥八月廿七日乙丑時正第二          大勧進源海    願以此功徳 普及於一切    我等與衆生 皆共成佛道        大工 丹治久友        大工 千門重延」

国指定史跡 上高津貝塚

  貝殻の散布は台地縁辺部の4地点で馬蹄形状をなす。総面積約44,000㎡、縄文中期から晩期にかけての貝塚である。  明治39年(1906)江見水蔭が紹介して知られ、昭和28年(1953)以降慶應義塾高等学校・慶應義塾大学・東京大学・土浦市教育委員会等による調査で、縄文中期・後期・晩期の土器片・猪牙製品・ヤス・製塩土器のほか、シカ等の獣骨、ヤマトシジミ・マダイ・クロダイ・スズキなどの魚骨等が出土し、内湾的な漁労活動が活発に行われていたことが明らかとなった。平坦な台地より、縄文時代の竪穴建物跡4軒、掘立柱建物跡等が発掘されている。  平成7年10月より「上高津貝塚ふるさと歴史の広場」として公開されている。

国指定重要文化財 茨城県武者塚古墳出土品

 土浦市上坂田に位置する武者塚古墳の出土品。武者塚古墳は、7世紀前半~中頃に築造された方墳である。  前室から、①把頭が尖った銀製の圭頭大刀【けいとうのたち】や把頭に青銅製の環をクローバーの葉形に繋いだ三累環頭大刀【さんるいかんとうのたち】等5口、②後世の杓子に似た鉄柄銅杓、③透し彫りを施した銀帯状金具が出土した。前室から④鉄鏃42点、玄室から⑤6体の人骨と布・皮片、⑦瑪瑙【めのう】・蛇紋岩【じゃもんがん】・碧玉・水晶の勾玉16点、水晶製切子玉1点、ガラス小玉79点が出土した。  ⑤の人骨には、髪・口髭【くちひげ】・顎鬚【あごひげ】が付いていたが、髪を頭頂から左右に分け、耳のところで束ねて紐で結び、耳の前に垂れる「みずら」と呼ばれた髪型があった。このような明確な状態での出土例はなく、全国的にも大変貴重な資料である。

国指定重要文化財 太刀 銘 守家造

  鎬造【しのぎづくり】、庵棟【いおりむね】。磨上げのため反りやや浅く、中鋒【ちゅうきっさき】。鍛えは小板目肌つみ、僅かに大肌交じり、地沸【じにえ】細かにつき、乱れ映り鮮明に立つ。刃文は丁子に蛙子・互の目・尖り刃など交じり、華やかに乱れて変化がある。飛焼入り、佩裏【はきうら】は直刃調で穏やか。総じて足・葉よく入り、匂勝ち小沸つき、細かな砂流しかかり、匂口明るく冴える。帽子は乱れ込み、先尖りごころに僅かに返る。茎は磨上げ、先切り、鑢目筋違【やすりめすじかい】、目釘孔4。  守家(初代)は、長船の隣の畠田住とされるが、「長船住」の銘もあるので、畠田は長船村の字という説や、晩年に畠田派の守家・眞守が、長船派に吸収されたとする説もある。制作年代は鎌倉初期。  

茨城県指定文化財・国選択無形民俗文化財 からかさ万灯

  かさから万灯は、五穀豊穣・家内安全と雨乞いの祈願をこめて、江戸時代中期ごろから行われたと伝わる花火行事である。毎年、8月15日に開催されている。  花火の種類は「やつぐち」、「てぼたん」、「みちび」、「つなび」に分かれ、傘の大きさは直径4m、高さ4mを測る。綱火によって点火され、傘の頂部から火を噴き、雨だれのように火の粉が降るその光景は見事である。昔は土地の若衆が花火をつくり、代々その技術が伝承されたが、今は一部を火薬製造を業者に委ねている。  昭和57年に国選択無形民俗文化財に選択された。

国指定重要文化財 太刀 銘 信房作

  鎬造【しのぎづくり】、庵棟【いおりむね】。身幅細く、磨上げながらも腰反り高く、小鋒【こきっさき】。鍛えは板目に杢【もく】交じり、肌立ちごころに地沸【じにえ】つき、地景入り、淡く地斑【じふ】映り立つ。刃文は直調浅く湾れごころに小乱れ、小丁子交じり、小足・葉入り、砂流し・金筋かかり、小沸厚く付く。帽子は湾れごころに先掃きかける。佩表【はきおもて】に丸止めの腰樋。茎は磨上げ、先切り、鑢目【やすりめ】浅い勝手下り、目釘孔4(うち2つを埋める)。  信房は備前の刀工で、後鳥羽上皇から鍛冶の総長者に任じられたといわれる。制作年代は鎌倉初期。古備前より時代を下げ、福岡一文字の古一文字信房とする見解もある。

国指定重要文化財 短刀 銘 国光

  平造【ひらづくり】、三つ棟。内反りのついた気品ある姿態である。鍛えは小板目肌よく錬れ、流れ肌交じり、地沸【じにえ】厚く敷き、地景頻りに入り、沸映り立ち、金色冴える。刃に沿って幽かにごく細い直状の映り立つ。刃文は中直刃、匂口締りごころに、きらめく小沸よくつき、金筋入り、ところどころの島刃風の沸筋あり、表の区際【まちぎわ】を焼き込み、匂口明るく冴える。帽子は小丸に先僅かに掃きかけて返り、この部分一段と沸強く輝き、地の方へ細く湯走りごころに零れる。茎は生ぶで振袖形、先栗尻、鑢目【やすりめ】浅い勝手り、目釘孔2(うち1を埋める)。    新藤五国光は粟田口派の作風を基盤に、更にいっそう地刃に沸を厚く敷き、地景金筋の働きを顕著に表現している。鎌倉末期の作。

国指定重要文化財 太刀 銘 恒次

  鎬造【しのぎづくり】、庵棟【いおりむね】、身幅やや細め、鎬幅狭く、元幅と先幅に目立って開きあり、腰反り高く踏張りつき、先に行っての反りやや緩やかとなり、小鋒【こきっさき】。鍛えは小板目に杢【もく】肌交じり、総じて肌目立ち、地沸【じにえ】つき、地斑【じふ】交じり、地景入り、肌縮緬状を呈す。刃文は直刃調に小乱れ、小足入り、匂口締りごころに小沸つく。帽子は直に小丸。茎は生ぶなれども先切り(尻を僅かに詰め)、鑢目大筋違【やすりめおおすじかい】、目釘孔2。恒次は備中古青江の刀工で、後鳥羽上皇の番鍛冶(24人)の1人である。本太刀は古青江の典型的な作域を示し、古朴で深い味わいを醸成している。 佩裏【はきうら】に作者銘をきるのも特色である。

茨城県指定文化財 前野家住宅

  前野家は、代々名主を務めた旧家で、主屋のほかに長屋門・土蔵・納屋等の付属棟も今に残る。  この住宅は左方を土間とした直屋【すごや】型の農家である。元は桁行9間の半分の4.5間を土間、残り4.5間を田の字型に4室に区画して居住部としていた。土間寄り2.5間を広間と台所、残り2間を座敷と納戸境に床の間を設ける。居住部の全面が、かつては竹すのこ天井であったという。明治期に修理を加え、一部柱の切除をはじめ間取りも変更を受けているが、主体構造はよく保たれている。  文化3年(1806)の『家普請付留覚帳』が残り、住宅の建築年代が明らかであることが大変貴重である。  

茨城県指定文化財 冨岡家住宅

  寄棟造、茅葺の大きな建物である。もとは広間・田の字系の間取りであったが、後世の増改築により平面規模が大きく複雑になり、屋根も大きくなった。唐破風屋根の式台付玄関が付加され、現在の姿となった。小屋組や間取りなどに増改築の跡がよく残り、江戸後期以降建物規模が大きくなった様子がよく分かる貴重な建物である。創建は江戸時代中期頃と思われる。先祖は小田氏の重臣で、近世に帰農したと伝えられ、代々名主も務めている。

茨城県指定文化財 矢口家住宅

 水戸街道に面した土蔵造で、店蔵・袖蔵・元蔵と称する3蔵より構成される。いずれも二階建で、店蔵は店と居室からなり、袖蔵に接続している。元蔵は離れている。土浦では天保12年(1841)9月12日の大火後、町屋に土蔵造と瓦葺屋根が出現し、矢口家住宅はその代表的な建物である。  付けたりの家相図は天保9年(1838)・弘化3年(1846)・同4年(1847)・文久4年(1864)・明治45年(1912)・大正5年(1916)、その他年不明の7枚があり、間取等建物の変遷する様子がよく分かり貴重である。

茨城県指定文化財 絹本著色普賢菩薩像

  正しくは普賢延命菩薩像とよび、密教の普賢延命法の本尊で、増益延命を司る。2臂【ひ】(台密系)と20臂(東密系)とがある。  この像は20臂で、臂毎に法具を持ち、頭上に5仏の宝冠を被る。衣には朱の地に裁金を張り、金泥で丸紋を描く。蓮台は薄い朱で描く。白象4頭は生老病死の四苦を表すが、4頭の上には四天王を置いている。  像の描き方は禅宗系のもの、制作時期は14~15世紀とみられる。

茨城県指定文化財 絹本著色釈迦涅槃像

  涅槃図は涅槃会【ねはんえ】に用いる図で、沙羅双樹【さらそうじゅ】に囲まれた宝牀台【ほうしょうだい】に臨終の釈迦が大きく横たわり、その周囲で菩薩・羅漢・弟子をはじめ王侯貴族や庶民や動物にいたるまで、嘆き悲しむ情景を描いたものである。  この図は天上界右上方より侍女を伴う摩耶夫人【まやぶにん】が、左上からは迦陵頻伽【かりょうびんが】が飛来する。8本の沙羅双樹のうち4本は悲しみのため変色している。涅槃像の衣文には雷文が截金で表わされているが、剥落が著しい。宝牀台は斜め足もとから描かれている。  南北朝時代、宅間式部法橋の作とされる。

茨城県指定文化財 紙本著色小田政治肖像画

  政治は小田12代成治の三男で、明応元年(1492)誕生。永正7年(1510) 14代城主となり、古河の足利高基を助ける一方、常南の上杉氏勢力を駆逐し、天文年間は小田氏の勢力範囲を、北は桜川市、東は行方市、西・南は小貝川まで広げた。領主級の大名から戦国大名に成長したのである。天文17年(1546)2月22日没、享年57。道号長伊。  この像は髪を束ね、花模様の衣の上に黒の法衣らしい衣をまとい、腰には小刀を挟み、上畳の上に褥【しとね】を敷き安坐する。前に団扇と折本を置く。像の上部には、大永2年(1522)の叔悦禅懌【しゅくえつぜんえき】(1449~1535)の賛がある。  戦国時代の代表的武家人物画である。

茨城県指定文化財 紙本著色小田氏治肖像画

  氏治は小田15代、享禄4年(1531)誕生。讃岐守となり、道号天庵。父政治の跡を継ぎ、初め佐竹氏や越後上杉氏と結ぶ。のち佐竹氏と対立、小田原北条氏と同盟したが勢力を弱め、小田城を失った。藤沢城などに拠って戦ったが、豊臣秀吉によって滅亡した。その後結城秀康に従って越前に赴き、慶長6年(1601)11月13日没した。享年71。  この像は黒い法衣をまとい、左手に念珠、右手に経巻を持ち、上畳の上に褥を敷いて安坐する。前には、左に経箱、右に猫が描かれ、箱上には法華経らしい経巻が置かれている。上部には下野雲巌寺中興の祖といわれる大虫宗岑【だいちゅうそうしん】禅師(1512~99)の賛がある。  安土桃山時代の武家人物画である。

茨城県指定文化財 銅板十一面観音御正体

  御正体【みしょうたい】とは、御神体・聖体を敬って呼ぶ語で、金属製の鏡や像を御神体またはその本地【ほんじ】仏とし、懸仏【かけぼとけ】として礼拝したものである。  この御正体の仏は三尊形式をとり、中央は十一面観音、両脇侍は薬師如来と阿弥陀如来で、観音は蓮華・錫杖を持つ長谷寺式、薬師は左手に薬壷を持ち、弥陀は定印【じょういん】を結ぶ。3体とも毛彫りの立像、光背は舟形である。  御正体は、肩にくりこみのある宝珠形の銅板を、2本の鈉【ほぞ】で台座に挿し込んである。室町時代の作と推定される。 

茨城県指定文化財 金銅造阿弥陀如来立像

  阿弥陀如来は無量寿(無量光)如来ともいい、西方極楽浄土にあって衆生【しゅじょう】を救う仏である。印相は親指と他の指で輪をつくるのが一般的であるが、この像は右手施無畏【みぎてせむい】印・左手刀印で、善光寺式といわれる如来像である。  肉髻【にくけい】は高く、髪際は直線的で、頬は張りをもち、端正な面相である。衣文の線は強い。両手首は蟻鈉留【ありほぞどめ】であるが、足先は一鋳である。鍍金の名残がある。光背・台座はない。  「大檀越平朝臣平常益 巧匠大江末清 弘長元年七月日」の銘がある。弘長元年は鎌倉中期、西暦1261年である。 

茨城県指定文化財 銅造阿弥陀如来立像

  本像は、浄真寺の阿弥陀如来(茨城県指定文化財彫刻第29号)と同様、善光寺式の阿弥陀如来で現存は独尊であるが、三尊像の本尊と思われる。  両手首を除き全体は一鋳である。手首は両袖口に差し込んで、銅釘を通して固定する。鍍金痕跡は無い。低い肉髻【にくけい】と大き目の螺髪【らほつ】等は鎌倉時代後半頃の表現だが、全体に形式の単純化が進む。頭部は大きく、肉付けには硬さがあり、後頭部の螺髪は略される。 これらの特徴から、本像は14世紀の制作と推定される。

茨城県指定文化財 木造阿弥陀如来坐像

  カヤの寄木造、玉眼、錆󠄀下地漆箔。螺髪【らほつ】は大粒で3段目以上が後補、白毫【びゃくごう】・肉髻【にくけい】・両手・左手袖口・裳先・右膝奥なども後補である。頭・体部とも前後矧ぎ、首は枘【ほぞ】挿し。左肩・左袖口・膝前・右膝奥・右肩・臂・手首は矧ぎ付け、左手首は袖口に差し込む。白毫相を表し、来迎印(上品下生【じょうほんげしょう】)を結び、結跏趺坐【けっかふざ】する。  面相は豊かで引締り、衣文は複雑で彫りも深く、運慶様式である。鎌倉時代の作。内部にある室町時代の小田成治父子による修理の墨書も貴重である。

茨城県指定文化財 木造薬師如来脇侍三尊像

  三尊ともヒノキの寄木造、玉眼。  薬師如来像は坐像。頭・体とも前後矧ぎ、首は枘挿し。肩・右肱・手首も矧ぎ、右手は施無畏印、左手に薬壷(後補)を持つが、左手の指先は欠失している。袈裟の右肩をはずす偏袒右肩【へんたんうけん】の形で結跏趺坐【けっかふざ】する。面・胸・両手の金箔や衣の朱彩は後補である。  日光像は立像で、右肘先を欠き、左手は垂れて、腰を僅かに捻る。月光【がっこう】像は日光と左右反対の姿である。衣は朱彩。脇侍の宝髻や三尊の光背・台座は後補である。  鎌倉時代の地方様式を踏襲するが、彫法が形式的で、南北朝時代(14世紀)の作とみられる。

茨城県指定文化財 木造薬師如来立像

  ヒノキの素地の一木造。両袖先・両手・両足先は挿し込み、また両袖先・両手・光背・台座は後補である。髪型が縄状の渦巻形に作られている点に、清凉寺式釈迦如来像の影響が見られる。鎌倉末~南北朝時代の作である。

茨城県指定文化財 木造釈迦如来立像

  釈迦は仏教の開祖仏陀(悟れる者の意)のこと。シャカ族出身で、姓はゴータマ、名はシッダルタ(悉達多)。古代インド、紀元前4~3世紀の人である。  この像は寄木造。前面は膝上、背面は両肩から左腕、右袖半ばまでヒノキ材。他はキリ材の後補。螺髪【らほつ】は彫出。肉髻【にくけい】珠・白毫【びゃくごう】・玉眼は水晶。頭は前後矧ぎ、割首。肉身部は朱漆塗り金泥彩、衣部は漆箔仕上げ。手は施無畏印・与願印。鎌倉末~南北朝時代の作。  光背・台座は補作。光背の周縁には宝塔と雲に乗る12如来を配し、台座は彫出の蓮華五重座である。胎内に釈迦堂縁起、万治・享保期の修理の木札などがある。

茨城県指定文化財 木造中峰禅師坐像

  ヒノキ材、玉眼、寄木造。頭部は3材を耳の前後で矧ぎ、中間材の下に胸前の1材を足す。体部は前後2材矧ぎで、両肩外側部を矧ぎ、内刳りを施す。肉身部は漆塗、衣部は彩色され、布貼り錆地上に宝相華文や鳳凰文等を、丹で緻密に描く。法衣の上に袈裟を掛け、禅定印を結び、曲彔【きょくろく】に結跏趺坐【けっかふざ】する。両膝部は横木1材で、これに裳裾を3段に矧ぎ付け、両袖裾側面を当て、両手首を矧ぎ付ける。  禅師は復庵和尚によって開山第一祖に勧請された。この像が祖師堂内に安置されているのはそのためである。衣紋の様式から見て、南北朝時代の作であろう。

茨城県指定文化財 木造広智上人坐像

  上人は下野(栃木県)の人、鑑真の弟子道忠に学び、弘仁年中上野・下野に巡錫中の最澄から受法し、東国での布教に当たった。寺伝では、常陸講師最仙上人から東城寺の寺務を受け継いだとするが、詳細は不明である。  この像は、ヒノキ又はカヤ材、割矧造、彩色、玉眼、僧形の坐像で、頭・体部一材を前後に矧ぎ、内刳りを施す。下衣・法衣の上に袈裟を掛け、大きく膝前に達する。左手は膝上で掌を上に五指を軽く曲げ、右手は前方に出して掌を内に向け五鈷杵【ごこしょ】を握る。結跏趺坐【けっかふざ】して袖と裳裾を幅広く垂らす。  裳裾裏に、嘉禎三年(1237)正月の造立銘、永仁六年(1298)小田の藤原氏による彩色銘、寛延年間(1748~51)の補修銘の墨書がある。

茨城県指定文化財 銅製丸鏡

  青銅製で縁は直角式中縁である。  背面は中心部に花文鈕【ちゅう】座を設ける。界圏内区の上部には、対峙する双雀を置き、左右側面から下部にかけては、草花を配している。外区には珠文・鋸歯文・櫛目文など幾何学的な文様を巡らす。界圏を境に、内区は和式文、外区は漢式文と和漢混淆形式である。この形式はまま見受けられる。 室町時代の作と考えられる。

茨城県指定文化財 金銅割五鈷杵

  五鈷杵【ごこしょ】は密教法具の一つで、両端が五つに分岐した金剛杵で、煩悩を破り仏性を明らかにするものである。  この五鈷杵は、縦に割れ中心部に舎利を納めるところに特色がある。一端が2鈷、もう一端が3鈷に割れる。これを互い違いに組み合わせて五鈷杵としたものである。銅と真鍮に鍍金が施され、鈷は細目で張りもあり、鬼目・蓮弁もよく彫られている。  この様式は立川流などの所用といわれ、作例は少なく珍しいものである。製作は鎌倉末期と推定される。

茨城県指定文化財 五鈷鈴

  五鈷鈴【ごこれい】は密教法具の一つで、修法【しゅほう】のとき振り鳴らして、衆生の眠れる仏性を呼び起すためのもので、鈴の上に五鈷杵【ごこしょ】をつけたものである。  この五鈷鈴は、青銅製で把【にぎり】の鬼目は大きく、鬼目の上下の蓮弁には鎬がついている。  全体として作りは簡潔であるが、鈴体の肩が張っていないところから、製作は平安末期から鎌倉初期にかけての作と推定される。

茨城県指定文化財 青磁三階塔

  磁器は高火度還元焔焼成の焼き物で、青磁は灰に含まれる僅かな鉄の成分が還元して青色を呈する磁器をいう。南宋の龍泉窯のものが最も美しく、我が国の茶人の間ではこれを砧手、やや黄味を帯びた厚い作りの元・明代のものを天竜寺手、透明度の強い明末以降のものを七官手とよんでいる。  この塔は、龍泉窯系の七官手で、奥に如来・菩薩・天部と思われる仏が、上二階には定印を結んで結跏趺坐【けっかふざ】し、下の階は右手触地印、左手は膝の上に置く倚像、いずれも左右に僧形の立像を配し、また各階の左右に竜を配す。寄棟の屋根の中央に玉を飾る。  「法雲雑記便覧」によれば、第29世獅林碩億が江戸の磯田氏から譲られたとある。

茨城県指定文化財 太刀(銘 国貞)

  鎬造【しのぎづくり】、庵棟。腰反り高く踏ん張りあり、中鋒【ちゅうきっさき】。鍛えは板目地、沸つき、乱れ映り立つ。刃文は下半は小乱れ、上半は丁子乱れとなり、足・葉入り、金筋入り、総体に染みごころがある。帽子は表裏とも乱れて先焼詰に近い。茎は僅かに磨上げて先切り、鑢目【やすりめ】は勝手下りで、目釘孔3。佩【はき】表元孔上棟寄りに細鏨の二字銘がある。  国貞は鎌倉中期の備前の刀工である。この太刀はやや研ぎ減りしているが、同時代同派の特色をよく残す。とくに有銘の作刀は極めて少なく、貴重である。

茨城県指定文化財 太刀(銘 来橘光定)

  鎬造【しのぎづくり】、丸棟。中反り高く、中鋒【ちゅうきっさき】延びごころ。鍛えは板目で綾杉肌立ち、白気ごころがある。刃文は細直刃、浅く湾れて小沸つき、匂口沈む。帽子は僅かに湾れて先は小丸に返る。表腰に梵字、裏腰の鎬筋に素剣の彫物がある。茎は生ぶ。 表に「南無鹿島大明神常州住人来橘光定」、裏に「遍照大勝金剛王 嘉慶二年辰□□日」の銘がある。嘉慶2年は西暦1388年である。常陸の国の作刀であるばかりでなく、ほかに同銘の作を見ず、地刃ともに健全で、資料としても貴重である。

茨城県指定文化財 石造燈籠

  材質は花崗岩製で、日枝神社境内にある。 基礎は円形で、複弁の反花が彫られる。竿には、上下と中央に三帯の節があり、縦に「永正八天(1511)辛未十二月二十日」の紀年銘がある。  中台は六角形で下部に単弁の請花があり、各面には格狭間が彫られている。 笠の蕨手は1つを除いて欠損し、笠は背が高く降棟も見られない。宝珠部は葱花状を呈する。 紀年銘を有し、年代の基準となる石燈籠である。

茨城県指定文化財 石造五輪塔

  花崗岩製で空・風輪がやや大きいが、全体の調和も取れ、安定感がある。  地輪正面には「功徳主頭白上人 永正十二天二月三日 大工本郷」、向かって左側面には「逆修」と数名の法名が刻まれている。永正十二年は戦国時代、西暦1515年である。在銘の塔として貴重である。  頭白上人は、当地で賊に殺された母から生まれ、生来頭髪が白かったといわれる。文明年間(1469~87)廻国僧として、東海村の村松虚空蔵堂の再建を始め、各地に足跡を残している。一説に、小田氏の一族で、太田の極楽寺開山虚海、享禄元年(1528)3月1日没といわれる。

茨城県指定文化財 石造五輪塔

  密教では、宇宙は地水火風空の五大によって構成されるとし、万物に輪円具足(充満)しているので輪をつけてよぶ。これを下から地輪(立方体)・水輪(球)・火輪(四角錐)・風輪(半球)・空輪(宝珠)と積み上げてあらわしたものが五輪塔である。  この五輪塔は、花崗岩製で基壇には反花【かえりばな】が配され、その下に格狭間【こうざま】があり蓮華模様が彫られている。地輪の高さは良く、水輪も力がみなぎっている。火輪の屋根の勾配はゆるく、軒反りも力強くゆったりとしている。風・空輪の形もよく、全体として均斉のとれた美しい五輪塔である。製作は鎌倉末期と推定されている。

茨城県指定文化財 石造五輪塔

  花崗岩製で、地輪は割合に大きく、その上の水輪はやや押しつぶされた球状である。火輪は軒上端に反りを持たせるが、下端にわずかに反りがある。空・風輪は比較的大きく、空輪と風輪との間は溝状の窪みを持つ。  無銘ではあるが、中世五輪塔の様式を考える上で貴重な資料である。室町時代末期の作と考えられる。

茨城県指定文化財 六地蔵石幢

  花崗岩製で、龕【がん】部六面に地蔵像が彫られている。現在、東城寺境内の池の中島に立つ。  構造は下部より基礎・竿・中台・龕部・笠・宝珠からなる。基礎には反花【かえりばな】座を置き、やや太めの竿には節が三帯設けられる。中台は六角形で、下部に二重蓮弁の請花を彫る。小振りの笠はやや厚く、蕨手が巻き上がる。  制作は室町時代後期から安土桃山時代にかけてと推定される。

茨城県指定文化財 六地蔵石幢

  花崗岩製の石幢。笠が厚く宝珠は大きく、竿は太く短い特徴をもつ。  基礎には八葉の反花【かえりばな】座を置き、竿の上・中・下に節が設けられる。中台は六角で、側面に格狭間は無く、下部に請花を彫る。龕【がん】部は六角で、各面に地蔵像が浮彫られる。笠は厚く龕部に合わせて蕨手【わらびて】を設ける。宝珠部は大きめである。  筑波地方にみられる六地蔵石幢の特色をよく表している。製作は室町時代末期と推測される。

茨城県指定文化財 棕毛払子

  払子【ほっす】とは、古代インドにおいて柄先に獣毛等の毛束を付けて虫や蚊を払ったものを、後に仏教僧侶の威儀を正す法具となり、特に禅僧の間で流行したものである。  この払子は、毛束を棕櫚の皮の繊維で作ったものである。柄には波文・竜・草花文等が浮彫りされている。 珂月禅師から贈られた禅版(市指定文化財工芸品第52号)と共に箱に納められており、中国元代の作で中峰禅師の所持と伝えられるが、法雲寺の由緒・寺宝等を記した「法雲雑記便覧」には記載がなく、伝来の経緯等については不明である。

茨城県指定文化財 竹繊払子

  この払子【ほっす】は、毛束部分を竹の繊維にしたものである。柄心は竹製で朱の絹地で覆い、植物繊維を巻き込む。柄元は棕櫚【しゅろ】の皮の繊維を撚って遊環を作り、柄の中程に2本の細長い紐を結びつける。縁は棕櫚の皮の繊維の紐で軍配の形に作り、内側を植物繊維であわじ結びに編む。毛束は軍配状の縁の先端から12条につけている。  この払子を納めた箱の蓋裏墨書によれば、水戸下市の信者からの寄進であり、元代末期ないし明時代のものとされる。

茨城県指定文化財 大般若波羅蜜多経

  略して大般若経ともいい、唐の三蔵法師玄奘【さんぞうほうしげんじょう】の訳で600巻からなる。般若は悟りの智恵、波羅蜜多はその完成と悟りの世界への到達の意で、大般若経はその悟りの世界をの思想で説く経典である。わが国では大般若経を供養することは無上の功徳とされ、護国除災のため経典読誦【きょうてんどくじゅ】が盛んに行われた。  この大般若経はもと沖宿の神宮寺にあったが、廃寺によってこの寺に移されたという。経文は書き写されたもので、書体は楷書と行書を交えている。第8巻の奥書には「承安五年」(1175)とある。

茨城県指定文化財 紺紙金泥大般若波羅蜜多経一巻(巻五〇六)

  この経は六百巻あるうちの巻五〇六に当たる箇所のもので、金粉をニカワにとかしたもので紺紙に1行17字で書かれる。見返しには仏画を付し、裏面の宝相華唐草の紺紙は別の紙で修理される。  寺伝では性空上人筆といわれるが、仏画の様式、書体、罫線の書式等から鎌倉時代末期頃の作とされている。

茨城県指定文化財 法雲寺文書

  中世文書類で、①聖祐寄進状1通、②足利尊氏書状1通、③証文類1巻、④荘主寮記1巻、⑤法語集2巻の5点を含む。  ①は貞和5年(1349)に尼聖祐から法雲寺への寄進状(添状)で、裏に小田孝朝の加判がある。②は尊氏から復庵宗己への書状(綸旨の添状か)、③は康暦2年(1380)から文明2年(1470)にかけての法春(武田信春か)・小田成治の寄進状、上杉憲方・同朝宗・同清方・法季(木戸範季か)の禁制、法雲寺役人連署証文等、④は嘉吉3・4年(1443・44)と長禄2年(1458)の寺領の年貢納入目録、⑤は正平12年(1357)の無隠元晦書状、ほかに雪庭紹融法語・古先印元法語・御光厳天皇綸旨案・復庵宗己諡号上奏案などである。

茨城県指定文化財 東城寺結界石

  結界石は一定の地域を区切る境界石である。ことに受戒や布薩等の儀式を行うために定めた大界・戒場・小界等の限られた地域を摂僧【せっそう】界というが、これを示す標石に「大界外相」と彫られたものである。  この結界石は雲母片岩製で、碑面中央に大きく「大界外相」、右側に「建長五年癸丑」(1253)、左側に「九月二十九日」とある。薬研彫りで浅い。山麓集落内にある他の4基(市指定文化財考古資料第10号)と一連のものであるが、東城寺境内に移された。  他にも鎌倉時代西大寺系律宗の高僧忍性による結界石は、市内宍塚の般若寺(県指定文化財考古資料第6号)、極楽寺跡(つくば市小田)にある。

茨城県指定文化財 結界石

  材質は雲母片岩製で、字は薬研【やげん】彫りで伸びやかである。製作は銘文により鎌倉時代建長5年(1253)7月である。  現在真言宗の般若寺は当時律宗であり、奈良西大寺叡尊の高弟忍性との関係が考えられる。忍性は『本朝高僧伝』に、各地に結界修法を行い、その数「結界寺院七十九所」と記されている。

茨城県指定文化財 鐃の鋳型溶笵

  密教法具銅鐃【みっきょうほうぐどうにょう】の鋳型である。  鐃は金剛鈴に先行する法具で、奈良時代から江戸時代まで用いられた。密教と神仏習合思想のもとに存在したと考えられている。  この鋳型は土製で、外型前後の合せ型の一面である。鈴身は無文で、把は棒状につくる。把端は二重の環を設け、環上が湯口と思われる。日枝神社境内付近の畑から出土したと伝えられる。  銅鐃の鋳型溶笵は全国的に見ても類例はほとんどなく貴重である。鎌倉時代のものと考えられる。

茨城県指定文化財 下坂田の板碑

  板碑は石の供養塔の一種で、関東では緑泥片岩の武蔵型と雲母片岩製の下総型がある。この板碑は下総型板碑に当る。  碑面には上部中央に、梵字【ぼんじ】で大きくキリーク(阿弥陀如来)、その下部向かって右寄りにサク(勢至菩薩)、向かって左寄りにサ(観音菩薩)が薬研彫りで刻まれる。右端に紀年銘の「永仁6年戊戌」(1298)、キリークの真下に枠つきで「南無阿弥陀仏」、その右に「孝子」・左に「敬白」と刻まれ、左端に「四月廿一日」とある。  県内における鎌倉時代の下総型板碑を代表する資料である。

茨城県指定文化財 色川三中関係史料

  ①色川文庫は、三中自筆の稿本類と三郎兵衛家の古文書類を含む444点の資料群であり、昭和55年に市の指定文化財となった。  ②色川徳治家文書は、色川三中と弟の美年が書き継いだ色川家の日記「家事志」「家事記」「附留」26冊と色川家に宛てて出された書状をまとめた「来翰集」27冊からなる。  ③色川三中肖像画は、三中が50歳となる節目の年にその姿を後世に残そうと描かせたものと思われる。  色川家の日記は、日付、天候に始まり、その日の出来事や、来客、年中行事など三中個人の軌跡のみならず、城下町土浦の生活や民衆のあり様を知る上で貴重な資料である。また、土浦藩土屋家の困窮や外国船の来航、安政の大地震などの幕末における歴史上の記述もみられる。三中・美年兄弟の残した日記や書簡は膨大であり、幕末土浦の様子がありありと見えてくる貴重な史料といえる。

茨城県指定文化財 日枝神社流鏑馬祭

  日枝神社は、東城寺が比叡山延暦寺を模した事にならい、近江坂本の日枝神社を勧請したもので、山王大権現と称した。祭礼は山ノ荘の平和と五穀豊穣を祈願したもので、現在4月第1日曜日に行われている。  この流鏑馬【やぶさめ】は、村人に害をなした大猿を領主の小神野【おかの】越前守(従羅天【じゅうらてん】)と弓の達人の市川将監【いちかわしょうげん】が退治した伝説を儀式化したものである。祭礼はまず、「ひとつもの」(人身御供)をむかえる使者が立ち、ひとつものが神社に送られると従羅天が馬乗疾走し将監に注進する。神輿【みこし】の渡御【とぎょ】に続いて、将監が馬上から次々と矢をつがえ、大猿になぞらえた的を射る。  室町時代の伝承を基にした物語性をもつ流鏑馬として、全国的に珍しい。

茨城県指定文化財 田宮ばやし

  田宮ばやしは、田宮梶ノ宮神社へ奉納されるお囃子である。 楽器は大太鼓、小太鼓、大鼓、小鼓、横笛などを使う。演目は三切り、大杉ばやし、かっころばし、八車【やぐるま】、かどつけ、かえり、疱瘡【ほうそう】ばやしの七種である。  鉦を用いないことが演奏上の特徴である。また疱瘡ばやしの音律は、近在に例がない田宮独特のものである。

茨城県指定文化財 藤原藤房卿遺跡

  この遺跡は「髪塔塚」とよばれ、藤原(万里小路【までのこうじ】)藤房が落飾した時の髪を埋めた所と伝えられる。塚は広さ10m四方、高さ約2mで塚の前には、三島毅(中洲)撰文の碑がある。  藤房は大納言宣房の子。『太平記』には、元弘の変(1331年)で常陸に流され、小田民部大輔【おだみんぶたいふ】に預けられたとある。その地が藤沢、民部大輔は治久とされるが、「金勝院本」に「民部少輔兼秋」とあり、治久には疑問もある。  建武の新政で帰京した藤房は、上卿として活躍するが、天皇の専制に不満を持ち、出家した。その後の消息は不明で、妙心寺二世授翁宗弼がその人との説もある。

茨城県指定文化財 土浦城跡及び櫓門

  最初の城主は戦国時代の若泉氏と言われ、菅谷【すげのや】氏が続く。近世には藤井松平・西尾・朽木・土屋・大河内松平と変遷し、貞享4年(1687)土屋が再入部し、幕末に至る。明治維新後は新治県庁・郡役所等が置かれ、昭和に入り本丸・二の丸の一部を公園整備され風致地区となる。  城は三の丸まで環郭式の平城・水城で、別名亀城と呼ぶ。天守はない。平成に入り西櫓・東櫓と土塁上の塀が一部復元された。  櫓門は入母屋・本瓦葺で、本丸にある江戸時代の櫓門では関東地方唯一の現存する遺構である。

茨城県指定文化財 東城寺経塚群

  経塚とは、経典を土中に埋納したところである。  当経塚は、明治23年(1890)に山林所有者が発見し、明治35年(1902)には学術調査が行われた。径4mの塚など12基が点在し、各々雲母片岩で石槨【せっかく】を作る。  保安3年(1122)、天治元年(1124)銘の銅鋳製経筒のほか、経巻(法華経)、和鏡、仏具等多数の埋納品があるが、出土状況は明らかでない。経筒銘文から、天台僧経暹・明覚を勧進僧として、平安末期の豪族常陸平氏多気致幹が壇越【だんおつ】となり、築かれた。  関東地方の代表的な経塚遺跡である。出土品は東京国立博物館が保管している。

茨城県指定文化財 真鍋のサクラ

  明治40年(1907)真鍋小学校を現在地に移築した時、校庭の南端に記念植樹されたものである。その後の拡張により、現在では校庭の中央に5株が残存する。一時樹勢が衰えかけたが、大規模な回復事業を施したため、花期に華麗な姿を再び見せている。樹種はバラ科サクラ属のソメイヨシノ(染井吉野)である。  この種は、オオシマザクラとエドヒガンの自然交雑種である。江戸末期に染井村(東京都豊島区)の植木職人が発見・育成して、北海道・沖縄を除く全国へ拡めた。遺伝子が同一のため桜前線の指標種とされる。枝を横に張り絢爛たる花影を呈する。

茨城県指定文化財 亀城のシイ

  土浦城二の丸南側土塁上に生育している。樹幹は地上約1mの所で2本に分かれ、樹勢は旺盛であるが幹の中心部は空洞である。県下でも有数の大樹の一つであるが、樹齢を確定することは不可能である。樹種はブナ科のイタジイである。  イタジイ(別名スダジイ・ナガジイ)の樹幹中央部の髄は柔組織で腐り易い。単にシイと呼ぶ場合、関西では果実の丸いツブラジイを、関東では果実の長い本種イタジイを指す。種子は生食できる。
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