![]() | 岡部洞水は、土浦藩土屋家に絵師として仕えた。本作品は、有職故実のひとつで、長寿を祈り邪気を払い悪疫を避ける薬玉を、繊細な筆致で優雅に色鮮やかに描いている。かすかにゆれる菖蒲の葉や五色の糸の動きは、人の気配をも感じさせる。上部にわずかに配されたすやり霞によって余白も情緒あふれるものとなっている。 |
![]() | 岡部洞水は、土浦藩土屋家に絵師として仕えた。七福神のなかでも寿老人や福禄寿は好まれた画題で、洞水もたびたび描いたものと推測される。本作品は、額が長く、杖に経典を結んだ姿の寿老人のみを画面の中央に流麗なタッチで堂々と描いた作品である。洞水の画業の充実が見て取れ、絵師として活躍していた時期のものと考えられる。 |
![]() | 岡部洞水は、土浦藩土屋家に絵師として仕えた。本作品は、宋の皇帝徽宗の筆になると伝えられる「桃鳩図」の模写である。本画の「桃鳩図」は院体画の傑作の一つとされ、近代では井上馨が所蔵していた。洞水は、没骨で表現された鳩や動きのある桃の枝を精密に写しとっている。駿河台狩野に学ぶ洞水の身の回りに、良質な手本があったことを示す作品である。 |
![]() | 本作品は、戦国武将の勇である武田家が滅亡した天目山の戦いを描いたものである。しかしながら、この時に自刃した武田勝頼は描かれていない。中央には、土浦藩土屋家の遠祖である土屋惣蔵昌恒が、右側には兄弟の秋山民部少輔が描かれる。天目山の戦いは土屋惣蔵が活躍したもので、この錦絵の主役となっている。 |
![]() | 本作品は、題を「霰」とし「たてのうへに たはしりにけむ たまあられ くたけてもなほ いさましのよや (楯の上に た走りにけむ 玉霰 砕けてもなお 勇ましの世や)東雄」と詠む。東雄は、善応寺(現土浦市真鍋)住職から還俗し、尊王の志士として活躍した。「万葉法師」と呼ばれた僧康哉に和歌を学び、書作品を残している。安政の大獄で連座し、大坂から江戸へ移送され、伝馬町の牢屋にて餓死を選んだ。 |
![]() | 本作品は、題を「落花」とし「夕ま暮 まつふく風も吹きたえて ちるましつはき やまかけの花」と詠む。色川三中は、薬種商・醤油屋の傍ら、国学や考証学に関心を持ち、学問を深め、度々和歌も詠んでいた。 |
![]() | 大久保要は土浦藩士で、通称は要、靖斎は号である。土屋彦直・寅直時代を支え、幕末には公用人を務めた。本作品は「紫藤掛雲木 花蔓宣陽春 密陽隠歌鳥 香風流美人 録李酒公詩」と、李白が「紫藤樹」と題した五言絶句を扇面にしたためたものである。 |
![]() | 本作品は、谷文晁が松、喜多武清が鶴、関思亮が七言二行をしたためた合作。関思亮は、書を持って土屋家に仕えた関家の3代目克明の実子だが、4代目を継がず29歳で逝去。克明・思亮父子は、谷文晁や滝沢馬琴ら、江戸の文人らと交遊したことで知られている。 |
![]() | 江戸時代から河岸として発展をしてきた土浦の川口川。川口川が霞ケ浦に注ぐ河口の様子を写した一葉である。河口には帆柱を立てた高瀬船がみえる。高瀬船の帆をたたまれ、棹をさして航行している。他にも小さな帆をはった舟がみえる。左手は水神宮で、手前にはサッパ舟が係留されている。。タイトルの英語表記「THE TSUCHIURA RIVER-MOUTH,KASUMIGAURA」 |
![]() | 茨城県立土浦中学校(現:土浦第一高等学校)の陸上大運動会の様子を写した一葉。1・2年生の騎馬戦の様子。 |
![]() | 茨城県立土浦中学校(現:土浦第一高等学校)の陸上大運動会の様子。会場入口の付近を写した一葉。絣の着物に下駄を履いた子どもの見学者もみえる。 |
![]() | 茨城県立土浦中学校(現:茨城県立土浦第一高等学校)の運動会の様子。 |
![]() | 茨城県立土浦中学校(現:土浦第一高等学校)の陸上大運動会の様子。防具をつけ、竹刀を手にした生徒たちが並ぶ。背後には大勢の見物客がみえる。 |
![]() | 茨城県立土浦中学校(現:土浦第一高等学校)の陸上大運動会の様子。見学者が見守る中、剣道の試演が行われている。 |
![]() | 茨城県立土浦中学校(現:茨城県立土浦第一高等学校)の陸上大運動会の様子。四年生の分裂行進を写した一葉。 |
![]() | 戦前。茨城県立土浦中学校(現:茨城県立土浦第一高等学校)の運動会の様子。相撲をとる生徒たち。 |
![]() | 土浦駅から蓮河原町方面を望む。土浦駅(常磐線)は周囲の土地より高かったことから水没をまぬがれた。中央を横切るのが桜川堤防の桜。 |
![]() | 祇園町(中央二丁目付近)の被害状況。服の裾をまくって歩けるようになった時期の撮影。 |
![]() | 昭和13(1938)年の洪水の様子を伝える絵葉書。右手は土浦小学校。 |
![]() | 川口川の被害状況。人々は船上から建物の2階に出入りをしている様子がわかる。右手に三ツ輪銀行の倉庫が映っている。手前は流れてきた畳であろうか。 |
![]() | 東崎町の鎮守である鷲ノ宮(鷲神社)付近一帯も水没した。 |
![]() | 茨城県立土浦中学校(現:茨城県立土浦第一高等学校)は、明治38年3月に立田校舎から真鍋台の新校舎に移転した。茨城県技師駒杵勤治により建てられた新校舎は、現在、国の重要文化財に指定されている。 |
![]() | 昭和15年(1940)頃の桜川堤の桜と土浦橋の風景。六号国道の敷設により桜川に架橋された「土浦橋」は、昭和9年の完工である。1930年代、桜川堤の桜は土浦の観光名所になった。 |
![]() | 昭和15年(1940)ごろ。昭和9年に川口川の一部は埋め立てられ、昭和10年に商店街(祇園町)が造られた。当時としては珍しい自家発電、自家水道を供えた近代的な商店街であった。通りの奥に見える建物は豊島百貨店である。 |
![]() | 昭和15年(1940)ごろの川口川風景。水郷土浦を代表する景観。両岸に柳を植樹して景観整備がなされ、「水の公園」と称された。現在はモール505、高架道になっている。停泊している右側の船には「江戸崎」という文字がよめる。 |
![]() | 昭和15年(1940)頃の土浦駅前。土浦市役所本庁舎北側から亀城公園方向を望む。行き交う車のなかに乗り合いバスもみられる。右にみえる多田自動車商会は市内でバスを運行したほか、土浦-牛久間に新路線も開設した。 |
![]() | 左側に大正11年(1922)に建てられた忠魂碑、右側に宿り木がみえる。亀城公園では昭和10年(1935)に景観整備が行われ、瓢箪池などが造られ、水郷らしい公園が誕生した。昭和15年ごろの公園風景である。 |
![]() | 昭和12年に新築された土浦警察署(立田町の現在地)を昭和15年ごろに撮影したもの。その後、昭和51年10月に現在の建物に改築された。 |
![]() | 土浦市は昭和15年に土浦町と真鍋町の対等合併により誕生した。現在の筑波銀行の位地にあった旧土浦町役場が土浦市役所となった。 |
![]() | 豊島百貨店はもともと土浦繭糸市場で、繭の取引が行われない時期に百貨店として売り場を設けていた。昭和11年(1936)に繭糸市場が閉鎖されてからは百貨店として一本化された。土浦町の大型店舗の先駆けであった。昭和15年ごろの風景。 |
![]() | 本丸の堀と土塁ごしに櫓門(太鼓櫓)と旧新治郡役所の屋根がみえる。屋根には薄っすらと雪が積もる。明治時代末から大正時代初期の撮影か。 |
![]() | 立田町の土浦高等女学校の校舎。現在の土浦第二高等学校。県南女子教育の中心となった学校である。もともとは土浦中学校(現:土浦第一高等学校)の校舎として使用されていたが、明治38年(1905)の土浦中学校の真鍋台移転により、高等女学校の校舎として使われるようになった。 |
![]() | 土浦の街の背後に筑波山がみえる。手前には水田が広がっている。中央左よりの建物は料亭「日新楼」か。 |
![]() | 土浦尋常小学校(現:土浦小学校)の校舎は、明治44年(1911)に木造西洋風二階建ての建物に建て替えられた。請負人の塚越斧太郎は、土浦中学校の建築にも関わっている。土浦名勝の一つとして紹介されている。 |
![]() | 阿見坂上より霞ヶ浦海軍航空隊の水上班を望む。水上機の訓練が行われた。土浦館発行の絵葉書には桜川堤の桜もあり、周辺の名所を案内したものになっている。現在は陸上自衛隊の武器学校となっている。 |
![]() | 明治時代末期から昭和時代初期にかけて、土浦の桜川堤防に桜が植樹され、1930年代には桜の名所となる。写真の桜の木はまだ細く、植えられてまもないものである。 |
| 経糸を上下させるための仕掛けをつくる。 |
| 経糸をはたおり機にかけて緯糸を通し、筬で打ち込む。 |
| 糸の撚りを安定させ、油分を抜く。 |
| 糸の毛羽立ちを抑え、強度を持たせる。 |
| 糸車を使いから管に糸を巻く。 |
| 糸車をつかって糸を紡ぐ。 |
| 経糸がたるまないようにしながら巻き取る。 |
| 織り上げた布を切り離す。 |
| ざらめきや経杭を使い経糸を作る。 |
| 座繰りと綛上げ、織り |
| 綿切りロクロで種と繊維とを分ける。 |
| 筬の目に経糸を通していく。 |
| よこたぐりを回して糸を巻き取る。 |
![]() | 昭和9年(1934)に考案された「かすみ人形」のうち、田螺の殻を利用して作られた「たにし人形」で、「金棒引き」。祭礼の半纏をまとい、背中の「祭」という文字が目を引く。 |
![]() | 田螺の殻を利用して作られた「かすみ人形」で、「大日本国防婦人会」の襷をかけて、日の丸の旗を振る。着物の右袖を模った紙を田螺の殻に貼り付けて、その先に旗をもたせている。昭和13年(1938)10月8日の「いはらき」新聞には、「霞人形も時局色」との見出しで、「時局色豊かな」人形が創作されたことを伝えている。本作品は昭和13年以降に製作されたものと考えられる。 |
![]() | 昭和9年(1934)に考案された「かすみ人形」のうち、田螺の殻を利用して作られた「たにし人形」で、「汐汲み」。天秤棒の先は金色で染め、そこから糸を垂らして桶をつなぐ。細かい細工で丁寧につくられている。着物には汐汲みということで波が表現されている。 |
![]() | 田螺の殻を利用してつくられた「かすみ人形」。黄色の紙を使って編笠を表現し、赤い紐をつけて頭に被せ、三味線を抱えている。着物には大きな紋様があしらわれており、特に目を引く。 |
![]() | 田螺の殻を利用してつくられた「かすみ人形」。藤の花を模した糸の飾りがつく。大きめの黒い笠の下に、上目遣いに見上げる女性の白い顔が対照的に表現されている。 |
![]() | 田螺の殻を利用してつくられた「かすみ人形」。農夫とその家族を題材にしたものである。農夫は肩に鍬をかけている。中央の子守りをする幼子の背中からは、小さな赤ん坊が顔を出している。婦人は絣の着物を着ている。同じような構成をとる「たにし人形」は他にも残り、定番のセットであった可能性がある。 |
![]() | 両衿に「霞月楼」とある。背には「霞月」と大きく表す。霞月楼は土浦の老舗料亭。出入りの庭師が所持したものである。 |
![]() | 衿には「桜井旅館」とあり、背には桜の花を模った中に「旅館」の文字が入る。桜井旅館は旧水戸街道沿いの中町(現中央二丁目)に所在した。本資料は土浦の大工棟梁が所持したものである。 |
![]() | 衿には「土浦中城町/山口薬舗」とある。中城町(現土浦市中央一丁目)は、旧城下町の中心にあたる。背には山形に「三」の字を大きく表す。本資料は土浦の大工棟梁が所持したものである。 |
![]() | 衿には「土浦中城町/山口薬舗」とある。中城町(現土浦市中央一丁目)は、旧城下町の中心にあたる。背には山形に「三」の字を大きく表す。本資料は土浦の大工棟梁が所持したものである。 |
![]() | 衿には「土浦中城町/山口薬舗」とある。中城町(現土浦市中央一丁目)は、旧城下町の中心にあたる。背には山形に「三」の字を大きく表す。本資料は土浦の大工棟梁が所持したものである。 |
![]() | 両衿に「柴沼支店」とある。本店は土浦の老舗醤油店である。本資料は土浦の大工棟梁が所持したものである。 |
![]() | 両衿に「柴沼商店」とある。亀甲に「正」の字を配する。本資料は土浦の大工棟梁が所持したものである。 |
![]() | 両衿に「柴沼商店」とある。背には亀甲に「正」の字が表されている。出入りの庭師が所持したものである。 |
![]() | 両衿にあたる布地に「柴沼醤油株式会社」とある。背には亀甲に「正」の字が表され、「柴沼」とも大書されている。出入りの庭師が所持したものである。 |
![]() | 両衿に「柴沼本店」とある。土浦の老舗醤油店である。本資料は土浦の大工棟梁が所持したものである。 |
![]() | 両衿に「正木屋呉服店」とある。背には丸に「正」の字が表されている。出入りの庭師が所持したものである。 |
![]() | 両衿に「正木屋呉服店」とある。背には丸に「正」の字が表されている。出入りの庭師が所持したものである。 |
![]() | 衿には「大儀鐵店」とある。背には出山形に「二」の字を大きく表す。本資料は土浦の大工棟梁が所持したものである。 |
![]() | 衿には「大儀鐵店」とある。背には出山形に「二」の字を大きく表す。本資料は土浦の大工棟梁が所持したものである。 |
![]() | 両衿に「大津屋家」とある。背には出山形に「大」の字が表されている。出入りの庭師が所持したものである |
![]() | 両衿に「銚五」とあり、銚子屋五兵衛の印半纏である。背には曲尺に「ト」の字が表されている。出入りの庭師が所持したものである。 |
![]() | 出山形に「半」の字を大きく表す。腰まわりには「原」の文字が表されている。本資料は土浦の大工棟梁が所持したものである。 |
![]() | 本資料は土浦の庭師(造園業)が所持したもので、土浦の料亭・呉服店・氷屋(製氷所)などの印半纏を所持していた。両衿に「尾形家」とある。背には尾形家の家紋が入る。尾形家とは土浦の老舗呉服店の「大徳」のこと。出入りの庭師が所持したものである。 |
![]() | 横町(大名行列の仮装 「国富 豊」) |
![]() | 横町(大名行列の仮装 「米積大蔵太輔」) |
![]() | 横町(大名行列の仮装) |
![]() | 横町(大名行列の仮装 「米積大蔵太輔」「家老」) |
![]() | 横町(大名行列の仮装 「家老」) |
![]() | 横町(大名行列の仮装) |
![]() | 横町(大名行列駕籠)、川口町(筆子の子供万度、松・折紙・三番叟の万度、道成寺の万度) 川口町の人数は船の者まで入れて280余人。若者や後見世話人まで含めると都合400余人の大行列。 |
![]() | 岡部洞水は、土浦藩土屋家に絵師として仕えた。つがいの鴛鴦を描いた横幅で、岩上には鮮やかな羽毛を持つ雄鳥と薔薇・竹葉を堂々と描き、水面には水かきで水の輪を緩やかに作りながら雄鳥に寄っていく、暗褐色の羽毛を持つ雌鳥を描く。明と暗、静と動、陸と水を対比させた作品である。 |
![]() | 岡部洞水は、土浦藩土屋家に絵師として仕えた。端裏書に「朱買臣」とある。朱買臣(?~BC115)は前漢時代の官僚で、家が貧しく、薪を売って暮らし独学した。のちに武帝に見いだされ、会稽太守となるなど出世した。大器晩成・立身出世のたとえにされる人物。朱買臣の担う薪の質感や手に持つ書物のしなやかさなどに、洞水の細やかな描写がみられる。「洞水愛敬六十七歳筆」とあり、洞水67歳の作品。 |
![]() | 岡部洞水は、土浦藩土屋家に絵師として仕えた。本作品は山村の春の風景を描いたもので、画面下部には種浸し、中央には新年を言祝ぐ獅子舞を見物する人々、左上には田植えの様子を配す。日本の農村風景が描かれた貴重な作例である。 |
![]() | 1922(大正11)年に独立した霞ヶ浦海軍航空隊の各施設や近隣の地域、飛行訓練中の飛行部隊を空撮した写真がまとめられている。航空隊の敷地を手前にして奥側に土浦の市街地の街並みを写したものもある。 |
![]() | 航空隊観光も盛り込まれた小冊子。霞ヶ浦海軍航空隊がおかれると、筑波山や霞ケ浦観光に加えて、航空隊も見どころ一つとなった。制作した柳旦堂は、土浦町で医薬・書籍販売業を営んでいたが、編著者として書籍の刊行にも携わった。冊子には案内記「筑波山と霞ケ浦」が絶版となったため訂正編集した旨が記されている。 |
![]() | 昭和13(1938)年の洪水の様子を伝える絵葉書。敷島町は現在の桜町一丁目にあたる。 |
![]() | 霞ヶ浦海軍航空隊におかれた格納庫の組み立てから完成までの写真をまとめたもの。全長約240m、高さ約39m、間口約65mという巨大な飛行船格納庫で、第一次世界大戦の戦利品としてドイツから入手したものであった。大正11年9月4日に起工式が行われ、同3月25日に完成した。 |
![]() | 佐原の西村万七が描いたもの。文化9年は惣町大祭であったため、ふだんの祇園祭(6月12日・13日)よりも長い期間にわたった。 |
![]() | 関克明は、書を持って土屋家に仕えた関家の3代目。本作品は、克明が「暁起畦丁送 長齋思差清 落生耽此味 厭説五侯鯖」の五言絶句をしたため、右下に谷文晁が蝶を、その下部に遠坂文雍が菜の花を描いた席画。三者がバランスよく画面を分けた瀟洒な作品。 |
![]() | 関克明は、書を持って土屋家に仕えた関家の3代目。本作品は、克明が盛唐の詩人王之渙の五言絶句「登鸛雀樓」「白日依山盡 黄河入海流 欲窮千里目 更上一層樓」を楷書でしたためた、切れ味の良い印象の作品である。 |
![]() | 関思恭は、書を持って土屋家に仕えた関家の初代。本作品は、「山不抂高間」とはじまり、山水の無為、自然なありようから、人倫、道徳を説いた文を草書でしたためたもの。唐様を自在にこなし、中国の書体に明るかったといわれる思恭の真価が発揮された作品。 |
![]() | 土浦城二の丸南側土塁上に生育している。樹幹は地上約1mの所で2本に分かれ、樹勢は旺盛であるが幹の中心部は空洞である。県下でも有数の大樹の一つであるが、樹齢を確定することは不可能である。樹種はブナ科のイタジイである。 イタジイ(別名スダジイ・ナガジイ)の樹幹中央部の髄は柔組織で腐り易い。単にシイと呼ぶ場合、関西では果実の丸いツブラジイを、関東では果実の長い本種イタジイを指す。種子は生食できる。 |
![]() | 昭和13(1938)年の洪水の様子を伝える絵葉書。祇園町通りは国道と土浦駅を結ぶ道路沿いに新たに作られた商店街である。 |
![]() | 災害対応のため霞ヶ浦海軍航空隊の応援を得た。土浦駅前での炊きだし風景である。 |
![]() | 材質は雲母片岩製で、字は薬研【やげん】彫りで伸びやかである。製作は銘文により鎌倉時代建長5年(1253)7月である。 現在真言宗の般若寺は当時律宗であり、奈良西大寺叡尊の高弟忍性との関係が考えられる。忍性は『本朝高僧伝』に、各地に結界修法を行い、その数「結界寺院七十九所」と記されている。 |
![]() | 本作品は、安政7年3月3日に江戸城桜田門外において水戸藩、薩摩藩の脱藩浪士が彦根藩の行列を襲撃して、大老・井伊直弼を暗殺した事件に関係する錦絵である。彦根藩の行列を襲撃したのは18名で、18名描かれているが、渡海崎之助とあるのは海後磋磯之助を、大岡利子次郎とあるのは岡部三十朗のことと思われる。事件は安政7年であるが、題は「安政五年」と年紀を変えて表現している。 |
![]() | 魁題百撰相は、血みどろ絵として知られた月岡芳年の代表作である。解題によると「膳城素肌攻め」の場面を描いたようだが、史実とは若干異なるものとなっている。冒頭には土屋惣藏のことを「駿遠三(駿河・遠江・三河)の勇兵」と記している。 |
![]() | 正しくは普賢延命菩薩像とよび、密教の普賢延命法の本尊で、増益延命を司る。2臂【ひ】(台密系)と20臂(東密系)とがある。 この像は20臂で、臂毎に法具を持ち、頭上に5仏の宝冠を被る。衣には朱の地に裁金を張り、金泥で丸紋を描く。蓮台は薄い朱で描く。白象4頭は生老病死の四苦を表すが、4頭の上には四天王を置いている。 像の描き方は禅宗系のもの、制作時期は14~15世紀とみられる。 |
![]() | 五鈷鈴【ごこれい】は密教法具の一つで、修法【しゅほう】のとき振り鳴らして、衆生の眠れる仏性を呼び起すためのもので、鈴の上に五鈷杵【ごこしょ】をつけたものである。 この五鈷鈴は、青銅製で把【にぎり】の鬼目は大きく、鬼目の上下の蓮弁には鎬がついている。 全体として作りは簡潔であるが、鈴体の肩が張っていないところから、製作は平安末期から鎌倉初期にかけての作と推定される。 |
![]() | 等覚寺の銅鐘は戦前、国宝の指定を受けていた。現在は国指定重要文化財。宍塚般若寺や潮来市長勝寺の銅鐘とともに、常陸三古鐘のひとつに数えられている。八田知家の寄進したもので、元は極楽寺にあった。 |
![]() | この経は六百巻あるうちの巻五〇六に当たる箇所のもので、金粉をニカワにとかしたもので紺紙に1行17字で書かれる。見返しには仏画を付し、裏面の宝相華唐草の紺紙は別の紙で修理される。 寺伝では性空上人筆といわれるが、仏画の様式、書体、罫線の書式等から鎌倉時代末期頃の作とされている。 |
![]() | 土浦藩土屋家の家紋である三石紋がほどこされた刀子と墨架である。土浦藩士安藤家伝来の品。安藤家は、代々権兵衛を襲名し、二代権兵衛以降、基本的に土浦詰め藩士として幕末まで土屋家に仕えた。 |
![]() | 土浦藩土屋家の家紋である三石紋がほどこされた盃で、土浦藩士家に伝わる例がみられる。本作品は、土浦藩士安藤家伝来の品。安藤家は、代々権兵衛を襲名し、二代権兵衛以降、基本的に土浦詰め藩士として幕末まで土屋家に仕えた。 |
| 下高津の紅葉ヶ丘公園より水害にみまわれた市街地.。 |
![]() | 蓮河原町では屋根まで水がくる被害をうけた。同地では昭和16年にも浸水し、同じ構図で撮られた写真がある。 |
| 掲載日:1892年1月5日 昨年暮より選挙準備をしていたが、3日に同志者20余名を集め協議を行う |
![]() | 踏車。羽根の先端を足で踏みながら回転させて水を送る。水路よりも高い位置にある水田へ水を汲み上げるための道具。 |
![]() | 花崗岩製で、地輪は割合に大きく、その上の水輪はやや押しつぶされた球状である。火輪は軒上端に反りを持たせるが、下端にわずかに反りがある。空・風輪は比較的大きく、空輪と風輪との間は溝状の窪みを持つ。 無銘ではあるが、中世五輪塔の様式を考える上で貴重な資料である。室町時代末期の作と考えられる。 |
![]() | 材質は花崗岩製で、日枝神社境内にある。 基礎は円形で、複弁の反花が彫られる。竿には、上下と中央に三帯の節があり、縦に「永正八天(1511)辛未十二月二十日」の紀年銘がある。 中台は六角形で下部に単弁の請花があり、各面には格狭間が彫られている。 笠の蕨手は1つを除いて欠損し、笠は背が高く降棟も見られない。宝珠部は葱花状を呈する。 紀年銘を有し、年代の基準となる石燈籠である。 |
![]() | 川口町(道成寺の万度〔大釣鐘、般若、T字型の棒〕、囃子屋台、帆柱の五色の吹流し) |
![]() | 昭和13(1938)年の洪水の様子を伝える絵葉書。現在の川口町付近。 |
![]() | 川口町(帆柱の五色吹流し引物大万度)、中城町(花・うちわの万度、桃太郎の万度) |
![]() | 足踏みの板を踏むと胴が回転する。両手で持った稲束を回転する胴にあてると、稲穂が歯にあたって籾を落としていく。 |
![]() | 表面に漆を何層にも塗り重ね、その漆の層を刀で掘ってレリーフ状に繊細な文様が表わされた、堆朱の硯箱である。土浦藩士安藤家伝来の品。安藤家は、代々権兵衛を襲名し、二代権兵衛以降、基本的に土浦詰め藩士として幕末まで土屋家に仕えた。 |
![]() | 大町(囃子と踊りの引屋台) |
![]() | 大町(松の万度、蜃気楼の万度、囃子と踊りの引屋台) |
![]() | 昭和13(1938)年の洪水の様子を伝える絵葉書。現在の大和町あたり。左側にみえる西洋建築の屋根は三ツ輪銀行(のちに常陽銀行となる)。船が行き交い、水につかりながら移動する人々の姿がみえる。 |
![]() | 関思亮は、書を持って土屋家に仕えた関家の3代目克明の実子だが、4代目を継がず29歳で逝去。本作品は、思亮が文晁の墨梅図に七言絶句「妙画工意不工俗 老子見画只尋香 未応塗抹相斯得 政自不為時世粧」をしたためたもの。早世した思亮の希少な作品。 |
![]() | 代金子拾参枚折紙付 |
![]() | 筑前国左文字派の行弘の作。行弘有銘の作は極めて少なく、その上年紀のあるものはこの短刀だけであろう。地刃健全であり、左一門の研究資料としても貴重である。 |
![]() | 中城町(桃太郎の万度、花車、桃太郎の母) |
![]() | 中城町(桃太郎の母は立場にて長唄所作、囃子の底抜け屋台?)、田宿町(花の万度、子供相撲万度、土俵入りの所作) |
![]() | 中町(朝鮮通信使の仮装行列) |
![]() | 中町(朝鮮通信使の仮装行列) |
![]() | 中町(朝鮮通信使の仮装行列) |
![]() | 中町(朝鮮通信使の仮装行列)、田町(花の万度・「去暮難渋ニ付万度斗リニ御座候」)、横町(大名行列) 田町では前年の暮れに火事があったため、行列には万度だけを参加させている。出し物であった「弥勒の出し」は町内に飾り付け置いた。 |
![]() | 東福門院は徳川秀忠の娘で、家光の兄弟である。元和6年に入内し、寛永元年に後水尾天皇の中宮となった。本作品は、中納言局(下冷泉為将の女性)の手紙で、幕府へ赴く道中に具合が悪くなった際、家光が土屋但馬守を遣わして、養生し快気後登城するようにと伝えてきた、このことを東福門院へ知らせて欲しい、と東福門院に仕える女性に伝えたもの。土屋但馬守は、土浦藩土屋家初代藩主数直のことである。 |
![]() | 露払いの獅子、囃子引屋台(大太鼓・締太鼓(2)、笛、鼓)、天王の神輿の行列(のぼり、矛、太鼓) |
![]() | 虫掛村(祭礼行列の露払いの獅子) 文化9年(1812)は惣町大祭であったことから、城下町の全ての町組が参加をした。そのため、ふだんの祇園祭では当番となった町組がつとめる獅子舞を、在方の虫掛村が務めている。 |
![]() | 神輿渡御(矛、太鼓、榊、天狗、神職、傘、神輿)、神輿は殿里の人たちが担ぐとされる |
![]() | 本作品は、孔子が周廟において子路ら2人の弟子に「宥坐之器(身近において生活の戒めとする道具)」をとおして中庸の大切さを説く場面を描く。其寧と梅渓は同年代で、江戸に本拠を置いた其寧の文人交流の一端を示す。 |
![]() | 神輿渡御、馬 |
![]() | 湿田の深い田んぼで使用された履物。稲刈りのときには、これを履いて刈り取った稲の株を歩きながら作業をした。 収集者:土浦市郷土資料館 収集地:土浦市中高津 |
![]() | 田宮ばやしは、田宮梶ノ宮神社へ奉納されるお囃子である。 楽器は大太鼓、小太鼓、大鼓、小鼓、横笛などを使う。演目は三切り、大杉ばやし、かっころばし、八車【やぐるま】、かどつけ、かえり、疱瘡【ほうそう】ばやしの七種である。 鉦を用いないことが演奏上の特徴である。また疱瘡ばやしの音律は、近在に例がない田宮独特のものである。 |
| 土浦市田宮地区に伝わる「田宮ばやし」は疱瘡ばやしなど7つの曲目で構成され、主に疫病退散を願って演奏されるものです。この映像は、田宮地区の祇園祭で3日間にわたり演奏される「田宮ばやし」を中心に、田宮地区の保存伝承活動の取り組みをご紹介するものです。 |
| 土浦市田宮地区に伝わる田宮囃子(茨城県指定無形民俗文化財)は7つの曲目で構成されています。 |
![]() | 湿田で使用する舟。稲刈りのときに、刈りとった稲を田舟の上で束ねて、穂が濡れたり汚れたりしないようにして運搬をした。 収集者:土浦市郷土資料館 収集地:不明 |
![]() | 湿田で使用する舟。稲刈りのときに、刈りとった稲を田舟の上で束ねて、穂が濡れたり汚れたりしないようにして運搬をした。 収集地:土浦市菅谷町 |
![]() | 湿田で使用する舟。稲刈りのときに、刈りとった稲を田舟の上で束ねて、穂が濡れたり汚れたりしないようにして運搬をした。土浦市矢作地区の農家が使用したもので、桜川沿いの低地(飯田地区側)の深田で使用した。耕地整理が行われてからは使用されなくなった。 収集地:土浦市矢作 |
![]() | 田宿町(子供角力万度、米俵を積んだ牛車の万度、囃子底抜屋台) |
![]() | 田宿町(囃子は底抜屋台)、裏町(花の万度)、西門・田中(折鶴の万度) |
![]() | 西門・田中(大亀を戴いた囃子の引屋台)、大町(花・鯛の子供万度、松・日の若者の万度) |
![]() | 昭和13(1938)年の洪水の様子を伝える絵葉書。土浦駅(背後)は水没を免れ、ここから多くの船がでた。 |
![]() | 昭和13(1938)年の洪水の様子を伝える絵葉書。現在の大和町付近。駅舎は水没を免れた。 |
![]() | 明治時代なかごろに、川口川沿いに建築された木造3階建ての旅館ある。土浦館では第二次世界大戦中、戦火を逃れる東京の児童の受け入れも行った(学童疎開)。 |
![]() | 土浦館は、明治時代なかごろに川口川沿いに建築された木造3階建ての旅館ある。 |
![]() | 明治時代なかごろに、川口川沿いに建築された木造3階建ての旅館ある。川口川は河岸として栄え、水運が盛んだった当事の面影がしのばれる。土浦館の絵葉書シリーズには、建物の内部の他、土浦桜川堤の桜や、霞ケ浦海軍航空隊の水上班を写した写真もある。 |
![]() | 明治時代なかごろに、川口川沿いに建築された木造3階建ての旅館ある。庭園の一部を被写体としており、渡り廊下がみえる。 |
![]() | 昭和8年(1933)頃の川口川沿いにあった旅館土浦館の撞球部。木造3階建ての本館とは悦に、洋食部と撞球部があった。電灯を灯した室内には、和装の男性や女性が顔をそろえ、洋装の男性2人がキュー(突き棒)を構え、ビリヤードに興じている。水平に横切るストーブの煙突やテーブルに置かれた鳥かごもみえる。 |
![]() | 昭和8年(1933)頃の川口川沿いにあった旅館土浦館の撞球部。木造3階建ての本館とは悦に、洋食部と撞球部があった。 |
![]() | 祇園町は川口川の埋め立てにより造成され、昭和10年(1935)に町営土浦公営市場の名の下、6月1日に開店した。当事としては珍しい自家発電・自家水道まで備えた近代的商店街であった。昭和11年には6号国道と土浦駅を結ぶ亀城通りが完成し、祇園町はその中心となる商店街として発展した。 |
![]() | ヨーロッパのメイポールダンス。 |
![]() | 戦前。土浦高等女学校(現:茨城県立土浦第二高等学校)の運動会の様子。 |
![]() | 戦前。土浦高等女学校(現茨城県立土浦第二高等学校)の運動会の様子。 |
![]() | 戦前。土浦高等場学校(現:茨城県立土浦第二高等学校)の運動会の様子。 |
![]() | 戦前。土浦高等場学校(現:茨城県立土浦第二高等学校)の運動会の様子。 |
![]() | 戦前。土浦高等女学校(現:茨城県立土浦第二高等学校)の運動会。 |
![]() | 戦前。土浦高等女学校の秋の運動会。 |
![]() | 戦前。土浦高等女学校の秋の運動会。 |
![]() | 河原子海岸その4。砂浜がひろがる河原子海岸(現日立市)は、烏帽子岩や大島など景観にも恵まれ、海水浴場として賑わいをみせた。 |
![]() | 河原子海岸その3。砂浜がひろがる河原子海岸(現日立市)は、烏帽子岩や大島など景観にも恵まれ、海水浴場として賑わいをみせた。 |
![]() | 河原子海岸その2。砂浜がひろがる河原子海岸(現日立市)は、烏帽子岩や大島など景観にも恵まれ、海水浴場として賑わいをみせた。 |
![]() | 河原子海岸その1。砂浜がひろがる河原子海岸(現日立市)は、烏帽子岩や大島など景観にも恵まれ、海水浴場として賑わいをみせた。 |
![]() | 水戸駅前での様子。この修学旅行のシリーズには、ほかに日立の河原子海岸がある。 |
![]() | 戦前。土浦高等女学校の秋の運動会。 |
![]() | 戦前。土浦高等女学校(現:茨城県立土浦第二高等学校)の運動会。 |
![]() | 「連合旗体操」とあり、日の丸を手にした女学生たちがみえる。大正5年(1916)11月3日の「立太子記念」スタンプが押されている。皇太子裕仁(ひろひと)親王の立太子礼を記念したもの。 |
![]() | 国学者の色川三中の顕彰碑である。三中の墓は神龍寺境内にある(土浦市指定文化財)。 |
![]() | 神龍寺は江戸時代の土屋家の祈祷寺であった。大正時代、住職の秋元梅峯によって、海軍航空隊の殉職者の慰霊と商店街振興のために花火大会が始められた。 |
![]() | 大正時代、住職の秋元梅峰によって、霞ヶ浦海軍航空隊の殉職者の慰霊と、関東大震災後の不況にあえぐ商店街の振興のため、花火大会が始められた。今日に続く「土浦全国花火競技大会」の始まりである。この像は戦時中に供出されたため、現在は新しく胸像が建てられている。 |
![]() | 神龍寺は土浦城の西に位置する。お寺の右下にみえる平坦地は土浦城三ノ丸跡。 |
![]() | 明治43(1910)年の洪水の様子を伝える絵葉書。桜川にかかる銭亀橋付近の様子で、背後には高津の台地がみえる。 |
![]() | 明治43(1910)年の洪水の様子を伝える絵葉書。外西町は現在の大手町から文京町付近にあたる。 |
![]() | 明治43年(1910)の洪水の様子。田宿裏町は現在の土浦市大手町にあたる。 |
| 土浦地方のはたごしらえ |
![]() | 茨城県立土浦中学校(現:茨城県立土浦第一高等学校)の20周年を記念して発行された絵葉書のうちの一葉。歴代校長の写真がのる。 |
![]() | 土浦中学校は立田町にあったが、真鍋台に新校舎が建設され、明治38年3月に移転した。茨城県技師駒杵勤治により建てられた新校舎は、国の重要文化財に指定されている。 |
![]() | 茨城県立土浦中学校(現:茨城県立土浦第一高等学校)は、明治33(1900)年4月1日、茨城県立尋常中学校土浦分校を改称して開校に至った。明治38年の3月にゴシック様式を取り入れた真鍋台の新校舎(写真の建物)に移った。茨城県技師駒杵勤治により建てられた新校舎は、国の重要文化財に指定されている。 |
![]() | 茨城県立土浦中学校(現:茨城県立土浦第一高等学校)は、明治33(1900)年4月1日、茨城県立尋常中学校土浦分校を改称して開校に至った。明治36年、立田町にて新校舎が整備されるが、同38年の3月にゴシック様式を取り入れた真鍋台の新校舎(写真の建物)に移った。 |
![]() | 霞月楼は明治22(1889)年の創業で、土浦を代表する料亭である。霞ヶ浦海軍航空隊に着任した山本五十六ら海軍の幹部仕官もたびたび訪れた。 |
![]() | 霞月楼は明治22(1889)年の創業で、土浦を代表する料亭である。霞ヶ浦海軍航空隊に着任した山本五十六ら海軍の幹部仕官もたびたび訪れた。 |
![]() | 戦前の桜川の花見風景。水郷汽船による観桜汽船の発着場付近とみられる。堤防にも川にも人が多く出ている。貸しボート屋が数軒あり、ボートをこぎながらの花見が人気であった。 |
![]() | 咲きそろう桜の堤に多くの見物客が行き交っている。桜川堤の桜は航空隊・水郷・筑波山といった周辺の観光資源とともにクローズアップされ、春の土浦の一大イベントとなっていた。春は花見、秋は花火である。 |
![]() | 桜川堤の花見風景。土浦の料亭「霞月楼」の大きな雪洞【ぼんぼり】がみえる。右手は昭和8年(1933)に架けられた匂橋。匂橋は木橋で、水郷土浦の花見の名所としてにぎわった。 |
![]() | 満開の堤防を多くの人が行きかっている。昭和7年(19322)には臨水遊歩路が完成し、水際からも桜を楽しめた。正面にかかる橋は、昭和9年に開通した国道6号の土浦橋である。 |
![]() | 戦前の桜川の花見風景。屋形船や貸しボート、霞ヶ浦沿岸各地からの船もでて、水上から花見を楽しむ人々がいた。 |
![]() | 下田は現在の文京町付近の旧町名である。江戸時代に上沼があった場所で、写真の当時は一面の水田であった。具体的な撮影地は不明。 |
![]() | 土浦八景シリーズの一葉。雪の土浦城址。奥に見える建物が櫓門である。手前の土塁上に鐘楼と東櫓があった。 |
![]() | 土浦八景シリーズのひとつ。旧水戸街道にかかる銭亀橋付近からみた桜川の風景。正面の社(森)は大町の道祖神とみられる。 |
![]() | 土屋挙直は、水戸藩徳川斉昭の第17男として誕生し、幼名を余七麻呂といった。文久3年11歳で土浦藩土屋家へ養子に入り、明治元年に養父寅直の家督を相続して最後の土浦藩主となった。版籍奉還後は、土浦藩知事に、明治4年7月の廃藩置県後は華族となり、その後東京に住んだ。本作品は、「辛未付秋」(明治4年秋)に挙直が「惟憂国家不礼親戚」としたためた一行書。 |
![]() | 「先之労之」は論語子路篇にある言葉で、子路が孔子に政治をなすべき道を問うたときの答え。何事も人々に先んじて行い、人々をいたわることという意味である。「乙丑仲冬 源挙直」とあり、乙丑(慶応元年 ※4月7日改元)に土浦藩主であった土屋挙直がしたためたもの。 |
![]() | 毛槍?、東崎町(花の万度・棒ささら) 底抜け屋台の中の三匹の獅子には、これを操っているであろう人々の顔がみえる。茨城県中央部にみられる「棒ささら」を描いたものであろう。 |
![]() | 東崎町(棒ささら)、本町(魚の子供万度、花・三番叟?の万度、警固) 本町の人数は170余人(子供含む)、警固役30人。 |
![]() | 本作品は「今日乗君酔 移来与結鄰 明日君醒処 只須恕酔人 移竹」と五言絶句をしたため、末尾に「移竹」とし、四君子として尊ばれた竹を擬人化して詠んだもの。弘庵の著作「春雨楼詩鈔」に収録されている。弘庵特有のはっきりした肥痩のある、特徴的な行書である。 |
![]() | 本作品は「不知栄達等炊桑 各被仙翁霊一場 若教北宣高臥客 夢認依旧致蒙皇」の七言絶句を弘庵が63歳の時したためたもの。「辛酉」とは文久元年のことで、弘庵が亡くなる前年の書であるが、肥痩のはっきりした特徴のある行書である。 |
![]() | 藤森弘庵は、諱を大雅、恭助と称し、字を淳風、粋然、号を弘庵・天山という。「天山」は安政の大獄で中追放を受けた安政6年以降3年間に用いた号である。本作品は「富霞緑映 明月独挙 青松落冷 白雲誰侶」と、独り己が道を貫く心境をしたためたもの。天保5年9月から弘化4年3月までの13年間、土浦藩士として藩校郁文館の教授、郡奉行などを務めた。 |
![]() | 青銅製で縁は直角式中縁である。 背面は中心部に花文鈕【ちゅう】座を設ける。界圏内区の上部には、対峙する双雀を置き、左右側面から下部にかけては、草花を配している。外区には珠文・鋸歯文・櫛目文など幾何学的な文様を巡らす。界圏を境に、内区は和式文、外区は漢式文と和漢混淆形式である。この形式はまま見受けられる。 室町時代の作と考えられる。 |
![]() | 白黒のテレビ。リモコンはなく、ダイヤルを回してチャンネルや音量を選んだ。日本のテレビ放送は昭和28年(1953)に始まったが、当初は値段が高くてなかなか買うことができなかった。 |
![]() | 上段の扉の中に氷を入れて、下段に入れた食品などを冷やした。上段には溶けた氷の水を排水する溝がある。氷は氷屋から買ってきた。現在の電気冷蔵庫のように食品の保存や保冷に優れていなかったことや、家庭用の氷冷蔵庫は高価であったことから、どこの家でも使用されたものではなかった。昭和30年代に入ると、電気冷蔵庫が普及により使用されなくなった。 |
![]() | 文化9(1812)年の祭礼の様子を描いたもの。在方の虫掛村の神輿の露払いにはじまる祭礼行列の先頭から最後尾の大町までを描く。祭礼の次第のほか町組の名や参加した人数、出し物の材料などを記しているのが特徴。土浦市指定文化財。 閉じた状態「土浦祭礼之図 国分」 |
![]() | 明治30年生まれの土浦町の大工棟梁が使用していた腹掛。 |
![]() | 本町(警固、日烏月兎の引物大万度をつけた曳き屋台) |
![]() | 本町(日烏月兎の引物大万度)、中町(酒樽の万度、朝鮮通信使の仮装行列) |
![]() | 土浦市佐野子では毎年8月13日に盆綱を作る。夕方、子供たちが盆綱をもって墓地に行き、墓地を周回して先祖の霊を乗せ、各家に送り届ける。佐野子の盆綱は、胴体部分となる綱とは別に、竹を芯にして龍の頭を作り出すのが特徴である。口の部分はサンダワラを半分に折って作り出している。 |
![]() | 木原老谷は土浦藩士で、名を谷蔵、通称を雄吉、字を節夫、諱を元礼といい、老谷は号である。藩校郁文館の分館で藩士の教育にあたるなど、五十嵐愛山、中田平山と並び幕末の土浦藩を支えた人物のひとり。本作品は老谷が「游山寸一月 念頭忘彼我 泉声来乱耳 白雲来奪坐」の五言絶句をしたためたもの。 |
![]() | ヒノキの素地の一木造。両袖先・両手・両足先は挿し込み、また両袖先・両手・光背・台座は後補である。髪型が縄状の渦巻形に作られている点に、清凉寺式釈迦如来像の影響が見られる。鎌倉末~南北朝時代の作である。 |
![]() | 現在、霞ケ浦周辺の蓮田では、ジェットポンプで土壌に水圧をかけてレンコンを収穫する方法(水掘り)がとられている。しかし、ポンプが導入される以前は、水を抜いた蓮田で、手掘りでレンコンを掘り上げていた。レンコン掘り用の鋤は、そうした手掘り時代の道具で、扁平な鋤先の部分で周辺の土を動かして収獲した。 |
![]() | 蓮掘り用の鋤に続いて使用されるようになった、レンコン収獲の道具。水を抜いた蓮田のなかで、周囲の土を除けながら収獲をした。蓮掘り様の万能は1970年頃に土浦の農家の人々がレンコン栽培の先進地である九州で入手して持ち帰り、これを阿見町の鍛冶屋に頼んで製作してもらい普及するようになった。鋤にくらべて取り扱いが容易で作業効率はあがったが、水圧ポンプの普及により使用されなくなった。 |
![]() | 花崗岩製の石幢。笠が厚く宝珠は大きく、竿は太く短い特徴をもつ。 基礎には八葉の反花【かえりばな】座を置き、竿の上・中・下に節が設けられる。中台は六角で、側面に格狭間は無く、下部に請花を彫る。龕【がん】部は六角で、各面に地蔵像が浮彫られる。笠は厚く龕部に合わせて蕨手【わらびて】を設ける。宝珠部は大きめである。 筑波地方にみられる六地蔵石幢の特色をよく表している。製作は室町時代末期と推測される。 |
![]() | 花崗岩製で、龕【がん】部六面に地蔵像が彫られている。現在、東城寺境内の池の中島に立つ。 構造は下部より基礎・竿・中台・龕部・笠・宝珠からなる。基礎には反花【かえりばな】座を置き、やや太めの竿には節が三帯設けられる。中台は六角形で、下部に二重蓮弁の請花を彫る。小振りの笠はやや厚く、蕨手が巻き上がる。 制作は室町時代後期から安土桃山時代にかけてと推定される。 |
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