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岡部洞水 他 合作 五節句図

 岡部洞水は、土浦藩土屋家に絵師として仕えた。岡部洞水・長谷川雪旦・蹄斎北馬・大西椿山・喜多武清ら江戸在住の5名の絵師が、五節句の図柄をひとつずつ描いて一作品としたもの。合作は席画とも呼ばれ、詩家や料亭などでの飲食に同席した人々が興に任せて筆をとったり、書画会で客の眼前で描いたりするもので、本作品もそうした機会に描かれたものと考えられたものであろう。絵師たちの交友関係を知る手がかりとなる作品である。

岡部洞水筆 花飾図

 岡部洞水は、土浦藩土屋家に絵師として仕えた。本作品は、有職故実のひとつで、長寿を祈り邪気を払い悪疫を避ける薬玉を、繊細な筆致で優雅に色鮮やかに描いている。かすかにゆれる菖蒲の葉や五色の糸の動きは、人の気配をも感じさせる。上部にわずかに配されたすやり霞によって余白も情緒あふれるものとなっている。

岡部洞水筆 寿老人

 岡部洞水は、土浦藩土屋家に絵師として仕えた。七福神のなかでも寿老人や福禄寿は好まれた画題で、洞水もたびたび描いたものと推測される。本作品は、額が長く、杖に経典を結んだ姿の寿老人のみを画面の中央に流麗なタッチで堂々と描いた作品である。洞水の画業の充実が見て取れ、絵師として活躍していた時期のものと考えられる。

岡部洞水筆 鳩図

 岡部洞水は、土浦藩土屋家に絵師として仕えた。本作品は、宋の皇帝徽宗の筆になると伝えられる「桃鳩図」の模写である。本画の「桃鳩図」は院体画の傑作の一つとされ、近代では井上馨が所蔵していた。洞水は、没骨で表現された鳩や動きのある桃の枝を精密に写しとっている。駿河台狩野に学ぶ洞水の身の回りに、良質な手本があったことを示す作品である。

月岡芳年画 武田勢天目山討死之図

 本作品は、戦国武将の勇である武田家が滅亡した天目山の戦いを描いたものである。しかしながら、この時に自刃した武田勝頼は描かれていない。中央には、土浦藩土屋家の遠祖である土屋惣蔵昌恒が、右側には兄弟の秋山民部少輔が描かれる。天目山の戦いは土屋惣蔵が活躍したもので、この錦絵の主役となっている。

佐久良東雄 和歌短冊「霰」

 本作品は、題を「霰」とし「たてのうへに たはしりにけむ たまあられ くたけてもなほ いさましのよや (楯の上に た走りにけむ 玉霰 砕けてもなお 勇ましの世や)東雄」と詠む。東雄は、善応寺(現土浦市真鍋)住職から還俗し、尊王の志士として活躍した。「万葉法師」と呼ばれた僧康哉に和歌を学び、書作品を残している。安政の大獄で連座し、大坂から江戸へ移送され、伝馬町の牢屋にて餓死を選んだ。

色川三中 和歌短冊「落花」

 本作品は、題を「落花」とし「夕ま暮 まつふく風も吹きたえて ちるましつはき やまかけの花」と詠む。色川三中は、薬種商・醤油屋の傍ら、国学や考証学に関心を持ち、学問を深め、度々和歌も詠んでいた。

大久保靖斎書 五言絶句扇面

 大久保要は土浦藩士で、通称は要、靖斎は号である。土屋彦直・寅直時代を支え、幕末には公用人を務めた。本作品は「紫藤掛雲木 花蔓宣陽春 密陽隠歌鳥 香風流美人 録李酒公詩」と、李白が「紫藤樹」と題した五言絶句を扇面にしたためたものである。

谷文晁・喜多武清・関思亮 合作

 本作品は、谷文晁が松、喜多武清が鶴、関思亮が七言二行をしたためた合作。関思亮は、書を持って土屋家に仕えた関家の3代目克明の実子だが、4代目を継がず29歳で逝去。克明・思亮父子は、谷文晁や滝沢馬琴ら、江戸の文人らと交遊したことで知られている。

(霞ヶ浦名所)土浦河口

 江戸時代から河岸として発展をしてきた土浦の川口川。川口川が霞ケ浦に注ぐ河口の様子を写した一葉である。河口には帆柱を立てた高瀬船がみえる。高瀬船の帆をたたまれ、棹をさして航行している。他にも小さな帆をはった舟がみえる。左手は水神宮で、手前にはサッパ舟が係留されている。。タイトルの英語表記「THE TSUCHIURA RIVER-MOUTH,KASUMIGAURA」

(土浦中学校陸上大運動会)剣道教練

 茨城県立土浦中学校(現:土浦第一高等学校)の陸上大運動会の様子。防具をつけ、竹刀を手にした生徒たちが並ぶ。背後には大勢の見物客がみえる。

(土浦名  土浦中学校

 茨城県立土浦中学校(現:茨城県立土浦第一高等学校)は、明治38年3月に立田校舎から真鍋台の新校舎に移転した。茨城県技師駒杵勤治により建てられた新校舎は、現在、国の重要文化財に指定されている。

(土浦名所) 櫻川の櫻と土浦橋の橋畔

 昭和15年(1940)頃の桜川堤の桜と土浦橋の風景。六号国道の敷設により桜川に架橋された「土浦橋」は、昭和9年の完工である。1930年代、桜川堤の桜は土浦の観光名所になった。

(土浦名所) 亀城通り祇園町の一部

 昭和15年(1940)ごろ。昭和9年に川口川の一部は埋め立てられ、昭和10年に商店街(祇園町)が造られた。当時としては珍しい自家発電、自家水道を供えた近代的な商店街であった。通りの奥に見える建物は豊島百貨店である。

(土浦名所) 水の公園川口町通りを望む

 昭和15年(1940)ごろの川口川風景。水郷土浦を代表する景観。両岸に柳を植樹して景観整備がなされ、「水の公園」と称された。現在はモール505、高架道になっている。停泊している右側の船には「江戸崎」という文字がよめる。

(土浦名所) 土浦駅前より大和町通りを望む

 昭和15年(1940)頃の土浦駅前。土浦市役所本庁舎北側から亀城公園方向を望む。行き交う車のなかに乗り合いバスもみられる。右にみえる多田自動車商会は市内でバスを運行したほか、土浦-牛久間に新路線も開設した。

(土浦名所) 土浦亀城公園の一部

 左側に大正11年(1922)に建てられた忠魂碑、右側に宿り木がみえる。亀城公園では昭和10年(1935)に景観整備が行われ、瓢箪池などが造られ、水郷らしい公園が誕生した。昭和15年ごろの公園風景である。

(土浦名所) 土浦市役所の全景

 土浦市は昭和15年に土浦町と真鍋町の対等合併により誕生した。現在の筑波銀行の位地にあった旧土浦町役場が土浦市役所となった。

(土浦名所) 本町銀座豊島百貨店前通り

 豊島百貨店はもともと土浦繭糸市場で、繭の取引が行われない時期に百貨店として売り場を設けていた。昭和11年(1936)に繭糸市場が閉鎖されてからは百貨店として一本化された。土浦町の大型店舗の先駆けであった。昭和15年ごろの風景。

(土浦名所)旧城址ノ景

 本丸の堀と土塁ごしに櫓門(太鼓櫓)と旧新治郡役所の屋根がみえる。屋根には薄っすらと雪が積もる。明治時代末から大正時代初期の撮影か。

(土浦名所)土浦高等女学校

 立田町の土浦高等女学校の校舎。現在の土浦第二高等学校。県南女子教育の中心となった学校である。もともとは土浦中学校(現:土浦第一高等学校)の校舎として使用されていたが、明治38年(1905)の土浦中学校の真鍋台移転により、高等女学校の校舎として使われるようになった。

(土浦名勝)土浦尋常小学校

 土浦尋常小学校(現:土浦小学校)の校舎は、明治44年(1911)に木造西洋風二階建ての建物に建て替えられた。請負人の塚越斧太郎は、土浦中学校の建築にも関わっている。土浦名勝の一つとして紹介されている。

(旅館土浦館)霞ヶ浦飛行場 水上班 

 阿見坂上より霞ヶ浦海軍航空隊の水上班を望む。水上機の訓練が行われた。土浦館発行の絵葉書には桜川堤の桜もあり、周辺の名所を案内したものになっている。現在は陸上自衛隊の武器学校となっている。

(旅館土浦館)櫻川の景

 明治時代末期から昭和時代初期にかけて、土浦の桜川堤防に桜が植樹され、1930年代には桜の名所となる。写真の桜の木はまだ細く、植えられてまもないものである。

「整経」

 ざらめきや経杭を使い経糸を作る。

かすみ人形

 「かすみ人形」は昭和9年(1934)に創作された土浦の郷土工芸品である。1930年代の土浦は、「遊覧都市」を志向して、東京などからの誘客に積極的につとめていた。そうしたなかで、新たな観光土産品として考案されたのが「かすみ人形」である。「かすみ人形」は、瓢箪を材料とする「ひさご人形」と、田螺を材料とする「たにし人形」の総称である。このうち「たにし人形」は、真鍋町(現土浦市真鍋)の関勝久によって考案された。たにしを材料としている点が水郷をイメージさせる土産品としてふさわしかったことや、殻の屈曲を巧みに活かして造形がなされていることが評価され、やがて「かすみ人形」といえば「たにし人形」を指すほどの人気となった。「たにし人形」は土浦桜川堤の花火や花火競技大会の土産品として重宝されただけでなく、「郷土工芸品」として東京をはじめ日本各地で販売されていった。

かすみ人形(たにし人形) 金棒引き

 昭和9年(1934)に考案された「かすみ人形」のうち、田螺の殻を利用して作られた「たにし人形」で、「金棒引き」。祭礼の半纏をまとい、背中の「祭」という文字が目を引く。

かすみ人形(たにし人形) 国防婦人

 田螺の殻を利用して作られた「かすみ人形」で、「大日本国防婦人会」の襷をかけて、日の丸の旗を振る。着物の右袖を模った紙を田螺の殻に貼り付けて、その先に旗をもたせている。昭和13年(1938)10月8日の「いはらき」新聞には、「霞人形も時局色」との見出しで、「時局色豊かな」人形が創作されたことを伝えている。本作品は昭和13年以降に製作されたものと考えられる。

かすみ人形(たにし人形) 汐汲み

 昭和9年(1934)に考案された「かすみ人形」のうち、田螺の殻を利用して作られた「たにし人形」で、「汐汲み」。天秤棒の先は金色で染め、そこから糸を垂らして桶をつなぐ。細かい細工で丁寧につくられている。着物には汐汲みということで波が表現されている。

かすみ人形(たにし人形) 鳥追い

 田螺の殻を利用してつくられた「かすみ人形」。黄色の紙を使って編笠を表現し、赤い紐をつけて頭に被せ、三味線を抱えている。着物には大きな紋様があしらわれており、特に目を引く。

かすみ人形(たにし人形) 藤娘

 田螺の殻を利用してつくられた「かすみ人形」。藤の花を模した糸の飾りがつく。大きめの黒い笠の下に、上目遣いに見上げる女性の白い顔が対照的に表現されている。

かすみ人形(たにし人形) 農夫と家族

 田螺の殻を利用してつくられた「かすみ人形」。農夫とその家族を題材にしたものである。農夫は肩に鍬をかけている。中央の子守りをする幼子の背中からは、小さな赤ん坊が顔を出している。婦人は絣の着物を着ている。同じような構成をとる「たにし人形」は他にも残り、定番のセットであった可能性がある。

かすみ人形(ひさご人形)

 「かすみ人形」は昭和9年(1934)に考案された土浦の郷土工芸品である。瓢箪を材料にした「ひさご人形」と田螺の殻を利用した「たにし人形」の総称である。「ひさご人形」の考案者は土浦の日本画家神林双山である。神林は「かすみ人形」を生産するために組織された「土浦郷土工芸研究会」の中心人物でもあった。1930年代に遊覧都市を志向していた土浦町では、水郷の地に相応しい土産物品として「かすみ人形」を売り出すためことに力を入れた。材料となる瓢箪を栽培するため町有地の提供を行ったり、「ひさご人形」を宣伝するための歌も作られた。しかし、材料の瓢箪を栽培する手間がかかった。また、工芸品としての限界もあったようで、茨城工芸展に出品された際には「材料を活かしていないため、面白みがないものになっている」との評価を受けた。材料の入手が容易で、田螺の殻の屈曲を上手に利用した「たにし人形」の方が次第に人気となり、「たにし人形」が主力となっていった。

からかさ万灯

  かさから万灯は、五穀豊穣・家内安全と雨乞いの祈願をこめて、江戸時代中期ごろから行われたと伝わる花火行事である。毎年、8月15日に開催されている。  花火の種類は「やつぐち」、「てぼたん」、「みちび」、「つなび」に分かれ、傘の大きさは直径4m、高さ4mを測る。綱火によって点火され、傘の頂部から火を噴き、雨だれのように火の粉が降るその光景は見事である。昔は土地の若衆が花火をつくり、代々その技術が伝承されたが、今は一部を火薬製造を業者に委ねている。  昭和57年に国選択無形民俗文化財に選択された。

茨城県武者塚古墳出土品

 土浦市上坂田に位置する武者塚古墳の出土品。武者塚古墳は、7世紀前半~中頃に築造された方墳である。  前室から、①把頭が尖った銀製の圭頭大刀【けいとうのたち】や把頭に青銅製の環をクローバーの葉形に繋いだ三累環頭大刀【さんるいかんとうのたち】等5口、②後世の杓子に似た鉄柄銅杓、③透し彫りを施した銀帯状金具が出土した。前室から④鉄鏃42点、玄室から⑤6体の人骨と布・皮片、⑦瑪瑙【めのう】・蛇紋岩【じゃもんがん】・碧玉・水晶の勾玉16点、水晶製切子玉1点、ガラス小玉79点が出土した。  ⑤の人骨には、髪・口髭【くちひげ】・顎鬚【あごひげ】が付いていたが、髪を頭頂から左右に分け、耳のところで束ねて紐で結び、耳の前に垂れる「みずら」と呼ばれた髪型があった。このような明確な状態での出土例はなく、全国的にも大変貴重な資料である。

印半纏(霞月楼)

 両衿に「霞月楼」とある。背には「霞月」と大きく表す。霞月楼は土浦の老舗料亭。出入りの庭師が所持したものである。

印半纏(桜井旅館)

 衿には「桜井旅館」とあり、背には桜の花を模った中に「旅館」の文字が入る。桜井旅館は旧水戸街道沿いの中町(現中央二丁目)に所在した。本資料は土浦の大工棟梁が所持したものである。

印半纏(山口薬舗)

 衿には「土浦中城町/山口薬舗」とある。中城町(現土浦市中央一丁目)は、旧城下町の中心にあたる。背には山形に「三」の字を大きく表す。本資料は土浦の大工棟梁が所持したものである。

印半纏(山口薬舗)

 衿には「土浦中城町/山口薬舗」とある。中城町(現土浦市中央一丁目)は、旧城下町の中心にあたる。背には山形に「三」の字を大きく表す。本資料は土浦の大工棟梁が所持したものである。

印半纏(山口薬舗)

 衿には「土浦中城町/山口薬舗」とある。中城町(現土浦市中央一丁目)は、旧城下町の中心にあたる。背には山形に「三」の字を大きく表す。本資料は土浦の大工棟梁が所持したものである。

印半纏(柴沼支店)

 両衿に「柴沼支店」とある。本店は土浦の老舗醤油店である。本資料は土浦の大工棟梁が所持したものである。

印半纏(柴沼商店)

 両衿に「柴沼商店」とある。亀甲に「正」の字を配する。本資料は土浦の大工棟梁が所持したものである。

印半纏(柴沼商店)

 両衿に「柴沼商店」とある。背には亀甲に「正」の字が表されている。出入りの庭師が所持したものである。

印半纏(柴沼醤油・仕立て前)

 両衿にあたる布地に「柴沼醤油株式会社」とある。背には亀甲に「正」の字が表され、「柴沼」とも大書されている。出入りの庭師が所持したものである。

印半纏(柴沼本店)

 両衿に「柴沼本店」とある。土浦の老舗醤油店である。本資料は土浦の大工棟梁が所持したものである。

印半纏(正木屋呉服店)

 両衿に「正木屋呉服店」とある。背には丸に「正」の字が表されている。出入りの庭師が所持したものである。

印半纏(正木屋呉服店)

 両衿に「正木屋呉服店」とある。背には丸に「正」の字が表されている。出入りの庭師が所持したものである。

印半纏(大儀鐡店)

 衿には「大儀鐵店」とある。背には出山形に「二」の字を大きく表す。本資料は土浦の大工棟梁が所持したものである。

印半纏(大儀鐡店)

 衿には「大儀鐵店」とある。背には出山形に「二」の字を大きく表す。本資料は土浦の大工棟梁が所持したものである。

印半纏(大津屋)

 両衿に「大津屋家」とある。背には出山形に「大」の字が表されている。出入りの庭師が所持したものである

印半纏(銚子屋五兵衛)

 両衿に「銚五」とあり、銚子屋五兵衛の印半纏である。背には曲尺に「ト」の字が表されている。出入りの庭師が所持したものである。

印半纏(萩原商店)

 出山形に「半」の字を大きく表す。腰まわりには「原」の文字が表されている。本資料は土浦の大工棟梁が所持したものである。

印半纏(尾形家)

 本資料は土浦の庭師(造園業)が所持したもので、土浦の料亭・呉服店・氷屋(製氷所)などの印半纏を所持していた。両衿に「尾形家」とある。背には尾形家の家紋が入る。尾形家とは土浦の老舗呉服店の「大徳」のこと。出入りの庭師が所持したものである。

横町

 横町(大名行列の仮装 「国富 豊」)

横町

 横町(大名行列の仮装 「米積大蔵太輔」)

横町

 横町(大名行列の仮装)

横町

 横町(大名行列の仮装 「米積大蔵太輔」「家老」)

横町

 横町(大名行列の仮装 「家老」)

横町

 横町(大名行列の仮装)

横町~川口町

 横町(大名行列駕籠)、川口町(筆子の子供万度、松・折紙・三番叟の万度、道成寺の万度) 川口町の人数は船の者まで入れて280余人。若者や後見世話人まで含めると都合400余人の大行列。

岡部洞水筆 鴛鴦之図

 岡部洞水は、土浦藩土屋家に絵師として仕えた。つがいの鴛鴦を描いた横幅で、岩上には鮮やかな羽毛を持つ雄鳥と薔薇・竹葉を堂々と描き、水面には水かきで水の輪を緩やかに作りながら雄鳥に寄っていく、暗褐色の羽毛を持つ雌鳥を描く。明と暗、静と動、陸と水を対比させた作品である。

岡部洞水筆 鍾馗図

 岡部洞水は、土浦藩土屋家に絵師として仕えた。鍾馗は、中国の民間伝承に伝わる道教系の神で、日本では、疱瘡除けや学業成就に効があるとされ、端午の節句に絵や人形が飾られた。図像は、長いひげを蓄え、中国の官人の衣装を身に着け、剣を持ち、大きな眼で何かを睨みつけている姿として描かれることが多い。本作品は、洞水がスピード感のある筆致で、鍾馗の特徴を捉え描く。毛髪とひげが逆立ち、睨みをきかせた方向に帽子の羽が向く様は、画面に緊張感を醸し出している。

岡部洞水筆 唐人物図(朱買臣図)

 岡部洞水は、土浦藩土屋家に絵師として仕えた。端裏書に「朱買臣」とある。朱買臣(?~BC115)は前漢時代の官僚で、家が貧しく、薪を売って暮らし独学した。のちに武帝に見いだされ、会稽太守となるなど出世した。大器晩成・立身出世のたとえにされる人物。朱買臣の担う薪の質感や手に持つ書物のしなやかさなどに、洞水の細やかな描写がみられる。「洞水愛敬六十七歳筆」とあり、洞水67歳の作品。

岡部洞水筆 農耕図

 岡部洞水は、土浦藩土屋家に絵師として仕えた。本作品は山村の春の風景を描いたもので、画面下部には種浸し、中央には新年を言祝ぐ獅子舞を見物する人々、左上には田植えの様子を配す。日本の農村風景が描かれた貴重な作例である。

下坂田の板碑

  板碑は石の供養塔の一種で、関東では緑泥片岩の武蔵型と雲母片岩製の下総型がある。この板碑は下総型板碑に当る。  碑面には上部中央に、梵字【ぼんじ】で大きくキリーク(阿弥陀如来)、その下部向かって右寄りにサク(勢至菩薩)、向かって左寄りにサ(観音菩薩)が薬研彫りで刻まれる。右端に紀年銘の「永仁6年戊戌」(1298)、キリークの真下に枠つきで「南無阿弥陀仏」、その右に「孝子」・左に「敬白」と刻まれ、左端に「四月廿一日」とある。  県内における鎌倉時代の下総型板碑を代表する資料である。

霞ヶ浦海軍航空隊建設記念写真帖

 1922(大正11)年に独立した霞ヶ浦海軍航空隊の各施設や近隣の地域、飛行訓練中の飛行部隊を空撮した写真がまとめられている。航空隊の敷地を手前にして奥側に土浦の市街地の街並みを写したものもある。

霞浦航空隊めぐり

 航空隊観光も盛り込まれた小冊子。霞ヶ浦海軍航空隊がおかれると、筑波山や霞ケ浦観光に加えて、航空隊も見どころ一つとなった。制作した柳旦堂は、土浦町で医薬・書籍販売業を営んでいたが、編著者として書籍の刊行にも携わった。冊子には案内記「筑波山と霞ケ浦」が絶版となったため訂正編集した旨が記されている。

格納庫建設記念写真帖

 霞ヶ浦海軍航空隊におかれた格納庫の組み立てから完成までの写真をまとめたもの。全長約240m、高さ約39m、間口約65mという巨大な飛行船格納庫で、第一次世界大戦の戦利品としてドイツから入手したものであった。大正11年9月4日に起工式が行われ、同3月25日に完成した。

巻末

 佐原の西村万七が描いたもの。文化9年は惣町大祭であったため、ふだんの祇園祭(6月12日・13日)よりも長い期間にわたった。

関克明・谷文晁・遠坂文雍 合作

 関克明は、書を持って土屋家に仕えた関家の3代目。本作品は、克明が「暁起畦丁送 長齋思差清 落生耽此味 厭説五侯鯖」の五言絶句をしたため、右下に谷文晁が蝶を、その下部に遠坂文雍が菜の花を描いた席画。三者がバランスよく画面を分けた瀟洒な作品。

関克明書 五言絶句「登鸛雀樓」

 関克明は、書を持って土屋家に仕えた関家の3代目。本作品は、克明が盛唐の詩人王之渙の五言絶句「登鸛雀樓」「白日依山盡 黄河入海流 欲窮千里目 更上一層樓」を楷書でしたためた、切れ味の良い印象の作品である。

関思恭四行書

 関思恭は、書を持って土屋家に仕えた関家の初代。本作品は、「山不抂高間」とはじまり、山水の無為、自然なありようから、人倫、道徳を説いた文を草書でしたためたもの。唐様を自在にこなし、中国の書体に明るかったといわれる思恭の真価が発揮された作品。

亀城のシイ

  土浦城二の丸南側土塁上に生育している。樹幹は地上約1mの所で2本に分かれ、樹勢は旺盛であるが幹の中心部は空洞である。県下でも有数の大樹の一つであるが、樹齢を確定することは不可能である。樹種はブナ科のイタジイである。  イタジイ(別名スダジイ・ナガジイ)の樹幹中央部の髄は柔組織で腐り易い。単にシイと呼ぶ場合、関西では果実の丸いツブラジイを、関東では果実の長い本種イタジイを指す。種子は生食できる。

旧茨城県立土浦中学校本館

  明治37年(1904)7月に上棟、同12月に竣工した。ゴシック様式を基本とした意匠で、平面は左右対称の凹字型をなす。当初は天然スレート(粘板岩・玄昌石)葺であった。壁はドイツ下見板張りである。旧制中学校では最初に国重文となった。  設計者は、辰野金吾の弟子で茨城県技師の駒杵勤治【こまきねきんじ】、26歳の時の作品である。県内に現存するものでは他に旧太田中学校講堂(国重文)、水戸商業学校旧本館玄関(国登録文化財)がある。  明治の近代化政策の一環として教育施設の西洋化意匠が図られる中で、洋式建築の設計図と在来の木造技術が創り出した象徴的な建物である。  平成30年3月に耐震補強工事が完成した。

金銅割五鈷杵

  五鈷杵【ごこしょ】は密教法具の一つで、両端が五つに分岐した金剛杵で、煩悩を破り仏性を明らかにするものである。  この五鈷杵は、縦に割れ中心部に舎利を納めるところに特色がある。一端が2鈷、もう一端が3鈷に割れる。これを互い違いに組み合わせて五鈷杵としたものである。銅と真鍮に鍍金が施され、鈷は細目で張りもあり、鬼目・蓮弁もよく彫られている。  この様式は立川流などの所用といわれ、作例は少なく珍しいものである。製作は鎌倉末期と推定される。

金銅造阿弥陀如来立像

  阿弥陀如来は無量寿(無量光)如来ともいい、西方極楽浄土にあって衆生【しゅじょう】を救う仏である。印相は親指と他の指で輪をつくるのが一般的であるが、この像は右手施無畏【みぎてせむい】印・左手刀印で、善光寺式といわれる如来像である。  肉髻【にくけい】は高く、髪際は直線的で、頬は張りをもち、端正な面相である。衣文の線は強い。両手首は蟻鈉留【ありほぞどめ】であるが、足先は一鋳である。鍍金の名残がある。光背・台座はない。  「大檀越平朝臣平常益 巧匠大江末清 弘長元年七月日」の銘がある。弘長元年は鎌倉中期、西暦1261年である。 

結界石

  材質は雲母片岩製で、字は薬研【やげん】彫りで伸びやかである。製作は銘文により鎌倉時代建長5年(1253)7月である。  現在真言宗の般若寺は当時律宗であり、奈良西大寺叡尊の高弟忍性との関係が考えられる。忍性は『本朝高僧伝』に、各地に結界修法を行い、その数「結界寺院七十九所」と記されている。

月岡芳年画 (愛宕山集合之図)密計ヲ評定シ餘波ノ宴ヲ催ス図

 本作品は、安政7年3月3日に江戸城桜田門外において水戸藩、薩摩藩の脱藩浪士が彦根藩の行列を襲撃して、大老・井伊直弼を暗殺した事件に関係する錦絵である。彦根藩の行列を襲撃したのは18名で、18名描かれているが、渡海崎之助とあるのは海後磋磯之助を、大岡利子次郎とあるのは岡部三十朗のことと思われる。事件は安政7年であるが、題は「安政五年」と年紀を変えて表現している。

月岡芳年画 魁題百撰相 土屋惣蔵

 魁題百撰相は、血みどろ絵として知られた月岡芳年の代表作である。解題によると「膳城素肌攻め」の場面を描いたようだが、史実とは若干異なるものとなっている。冒頭には土屋惣藏のことを「駿遠三(駿河・遠江・三河)の勇兵」と記している。

絹本著色高峰和尚像

  袈裟をつけた禅僧の全身または半身の肖像画を頂相【ちんぞう】という。  高峰原妙【こうほうげんみょう】(1238~95)は中国江蘇省蘇州府呉江県の人、俗姓は徐、杭州天目山西峯の獅子巖で弘法に勤めた。獅子・大覚二寺を開き、弟子数百、受戒者数万人に及んだといわれる。  この像は「有髪【うはつ】の御影【みえ】」と呼ばれ、長髪で口辺に八の字髭を蓄えた特異な容姿は、在野を貫いた強い個性を写している。色彩は控えめで線は強く、一風変わった法衣に施された強い隈取りが印象的である。上部に絶岸可湘【ぜつがんかしょう】と王剛中【おうごうちゅう】の賛がある。  この絵は復庵宗己帰国後、禅版と共に幻住庵の珂月禅師から贈られたと伝えられる。中国元代の代表的肖像画である。

絹本著色釈迦涅槃像

  涅槃図は涅槃会【ねはんえ】に用いる図で、沙羅双樹【さらそうじゅ】に囲まれた宝牀台【ほうしょうだい】に臨終の釈迦が大きく横たわり、その周囲で菩薩・羅漢・弟子をはじめ王侯貴族や庶民や動物にいたるまで、嘆き悲しむ情景を描いたものである。  この図は天上界右上方より侍女を伴う摩耶夫人【まやぶにん】が、左上からは迦陵頻伽【かりょうびんが】が飛来する。8本の沙羅双樹のうち4本は悲しみのため変色している。涅槃像の衣文には雷文が截金で表わされているが、剥落が著しい。宝牀台は斜め足もとから描かれている。  南北朝時代、宅間式部法橋の作とされる。

絹本著色中峰和尚像

  中峰【ちゅうほう】(1263~1323)は道号、法諱は明本、俗姓は孫。杭州路銭塘県の生まれ、高峰に参禅してその法を継いだ。五山の住持に招請されたが断り、定居なく幻住と自称した。智覚禅師と諡【おくりな】され、また普応国師と加諡【かし】された。「天目中峰広録」(30巻)がある。  この頂相【ちんぞう】は、まばらな髪に無精髭を生やし、ゆったりと法衣の襟を開いて曲彔【きょくろく】に座して、払子を手にする。傍らの2僧がざくろを割っているので「柘榴【ざくろ】の御影【みえ】」と呼ばれるが、背景に屏風と高欄を配した珍しい図様である。頂相とは、袈裟をつけた禅僧の全身または半身の肖像画のことである。  中国元代の地方仏画師の作であろう。上部の自賛は中峰の真筆ではないとされる。法衣と共に、天目山の善栄禅師から贈られたものである。

絹本著色普賢菩薩像

  正しくは普賢延命菩薩像とよび、密教の普賢延命法の本尊で、増益延命を司る。2臂【ひ】(台密系)と20臂(東密系)とがある。  この像は20臂で、臂毎に法具を持ち、頭上に5仏の宝冠を被る。衣には朱の地に裁金を張り、金泥で丸紋を描く。蓮台は薄い朱で描く。白象4頭は生老病死の四苦を表すが、4頭の上には四天王を置いている。  像の描き方は禅宗系のもの、制作時期は14~15世紀とみられる。

絹本著色復庵和尚像

 復庵宗己【ふくあんそうき】は弘安3年(1280)に生まれ、俗名を宗儀という。父は小田宗知だが、小田治久の猶子となったと伝えられる。松島円福寺(のち瑞巌寺)に学び、入元して中峰明本の教えを受けた。帰国後、後光厳院や足利尊氏の招きを断って、高岡に法雲寺を開き、延文3年(1358)この地に没した。院より大光禅師の諡【おくりな】を贈られた。  この絵は「松下経行【しょうかきんひん】の御影【みえ】」と呼ばれる頂相【ちんぞう】で、黒褐色の法衣に茶色の袈裟をまとい、両手を袖中にして松の木の下を歩く、修禅生活の姿を描く。頂相とは、袈裟をつけた禅僧の全身または半身の肖像画のことである。筆致は繊細で、和風の平坦な趣が強い。  上部には法嗣龍江善沢【りゅうこうぜんたく】に与えた自賛があるが、寺伝では、絵はその龍江和尚の制作とされる。南北朝時代の代表的な頂相である。

五鈷鈴

  五鈷鈴【ごこれい】は密教法具の一つで、修法【しゅほう】のとき振り鳴らして、衆生の眠れる仏性を呼び起すためのもので、鈴の上に五鈷杵【ごこしょ】をつけたものである。  この五鈷鈴は、青銅製で把【にぎり】の鬼目は大きく、鬼目の上下の蓮弁には鎬がついている。  全体として作りは簡潔であるが、鈴体の肩が張っていないところから、製作は平安末期から鎌倉初期にかけての作と推定される。

国宝土浦等覚寺の鐘

 等覚寺の銅鐘は戦前、国宝の指定を受けていた。現在は国指定重要文化財。宍塚般若寺や潮来市長勝寺の銅鐘とともに、常陸三古鐘のひとつに数えられている。八田知家の寄進したもので、元は極楽寺にあった。

紺紙金泥大般若波羅蜜多経一巻(巻五〇六)

  この経は六百巻あるうちの巻五〇六に当たる箇所のもので、金粉をニカワにとかしたもので紺紙に1行17字で書かれる。見返しには仏画を付し、裏面の宝相華唐草の紺紙は別の紙で修理される。  寺伝では性空上人筆といわれるが、仏画の様式、書体、罫線の書式等から鎌倉時代末期頃の作とされている。

三石紋入り刀子・墨架

 土浦藩土屋家の家紋である三石紋がほどこされた刀子と墨架である。土浦藩士安藤家伝来の品。安藤家は、代々権兵衛を襲名し、二代権兵衛以降、基本的に土浦詰め藩士として幕末まで土屋家に仕えた。

三石紋入り盃

 土浦藩土屋家の家紋である三石紋がほどこされた盃で、土浦藩士家に伝わる例がみられる。本作品は、土浦藩士安藤家伝来の品。安藤家は、代々権兵衛を襲名し、二代権兵衛以降、基本的に土浦詰め藩士として幕末まで土屋家に仕えた。

紙本著色小田氏治肖像画

  氏治は小田15代、享禄4年(1531)誕生。讃岐守となり、道号天庵。父政治の跡を継ぎ、初め佐竹氏や越後上杉氏と結ぶ。のち佐竹氏と対立、小田原北条氏と同盟したが勢力を弱め、小田城を失った。藤沢城などに拠って戦ったが、豊臣秀吉によって滅亡した。その後結城秀康に従って越前に赴き、慶長6年(1601)11月13日没した。享年71。  この像は黒い法衣をまとい、左手に念珠、右手に経巻を持ち、上畳の上に褥を敷いて安坐する。前には、左に経箱、右に猫が描かれ、箱上には法華経らしい経巻が置かれている。上部には下野雲巌寺中興の祖といわれる大虫宗岑【だいちゅうそうしん】禅師(1512~99)の賛がある。  安土桃山時代の武家人物画である。

紙本著色小田政治肖像画

  政治は小田12代成治の三男で、明応元年(1492)誕生。永正7年(1510) 14代城主となり、古河の足利高基を助ける一方、常南の上杉氏勢力を駆逐し、天文年間は小田氏の勢力範囲を、北は桜川市、東は行方市、西・南は小貝川まで広げた。領主級の大名から戦国大名に成長したのである。天文17年(1546)2月22日没、享年57。道号長伊。  この像は髪を束ね、花模様の衣の上に黒の法衣らしい衣をまとい、腰には小刀を挟み、上畳の上に褥【しとね】を敷き安坐する。前に団扇と折本を置く。像の上部には、大永2年(1522)の叔悦禅懌【しゅくえつぜんえき】(1449~1535)の賛がある。  戦国時代の代表的武家人物画である。

上高津貝塚

 上高津貝塚は、今から約4,000年前から3,000年前の縄文時代後晩期につくられた、関東地方有数の大規模貝塚です。遺跡は、桜川河口域に位置し、舌状台地の斜面に沿って馬蹄形(ばていけい)状に分厚い貝層が広がっています。貝層は、1~1.5mの厚さで、汽水域に生息するヤマトシジミが9割以上を占めています。 明治33年(1900) に、江見水陰が採集資料を報告した『地中の秘密』によってその存在が知られ、昭和5年以降には大山史前学研究所が発掘調査を行いました。この時の調査記録や出土遺物は、第二次世界大戦の戦災で失われています。戦後には、慶應義塾大学考古研究会や東京大学総合研究資料館(当時)によって発掘調査が行われ、昭和52年(1977)に国の史跡に指定されました。 上高津貝塚はA~E地点の5地点に分けられます。史跡整備に伴い、平成2・3年(1990・19991)にA・C・E地点で発掘調査が行われ、貝層とともに集落跡が検出されています。特に、C地点の調査では、縄文時代中期から晩期にかけての住居跡と土坑墓が検出されたほか、完形の製塩土器が4点出土しています。製塩土器の完形品の出土例は少なく、関東地方の土器製塩を考えるうえで重要な資料です。製塩土器を含む上高津貝塚出土品は、上高津貝塚ふるさと歴史の広場の常設展示にて展示されています。

上高津貝塚

  貝殻の散布は台地縁辺部の4地点で馬蹄形状をなす。総面積約44,000㎡、縄文中期から晩期にかけての貝塚である。  明治39年(1906)江見水蔭が紹介して知られ、昭和28年(1953)以降慶應義塾高等学校・慶應義塾大学・東京大学・土浦市教育委員会等による調査で、縄文中期・後期・晩期の土器片・猪牙製品・ヤス・製塩土器のほか、シカ等の獣骨、ヤマトシジミ・マダイ・クロダイ・スズキなどの魚骨等が出土し、内湾的な漁労活動が活発に行われていたことが明らかとなった。平坦な台地より、縄文時代の竪穴建物跡4軒、掘立柱建物跡等が発掘されている。  平成7年10月より「上高津貝塚ふるさと歴史の広場」として公開されている。

色川三中関係史料

  ①色川文庫は、三中自筆の稿本類と三郎兵衛家の古文書類を含む444点の資料群であり、昭和55年に市の指定文化財となった。  ②色川徳治家文書は、色川三中と弟の美年が書き継いだ色川家の日記「家事志」「家事記」「附留」26冊と色川家に宛てて出された書状をまとめた「来翰集」27冊からなる。  ③色川三中肖像画は、三中が50歳となる節目の年にその姿を後世に残そうと描かせたものと思われる。  色川家の日記は、日付、天候に始まり、その日の出来事や、来客、年中行事など三中個人の軌跡のみならず、城下町土浦の生活や民衆のあり様を知る上で貴重な資料である。また、土浦藩土屋家の困窮や外国船の来航、安政の大地震などの幕末における歴史上の記述もみられる。三中・美年兄弟の残した日記や書簡は膨大であり、幕末土浦の様子がありありと見えてくる貴重な史料といえる。

色川氏の近状 

 掲載日:1892年1月5日 昨年暮より選挙準備をしていたが、3日に同志者20余名を集め協議を行う

真鍋のサクラ

  明治40年(1907)真鍋小学校を現在地に移築した時、校庭の南端に記念植樹されたものである。その後の拡張により、現在では校庭の中央に5株が残存する。一時樹勢が衰えかけたが、大規模な回復事業を施したため、花期に華麗な姿を再び見せている。樹種はバラ科サクラ属のソメイヨシノ(染井吉野)である。  この種は、オオシマザクラとエドヒガンの自然交雑種である。江戸末期に染井村(東京都豊島区)の植木職人が発見・育成して、北海道・沖縄を除く全国へ拡めた。遺伝子が同一のため桜前線の指標種とされる。枝を横に張り絢爛たる花影を呈する。

水車

 踏車。羽根の先端を足で踏みながら回転させて水を送る。水路よりも高い位置にある水田へ水を汲み上げるための道具。

青磁三階塔

  磁器は高火度還元焔焼成の焼き物で、青磁は灰に含まれる僅かな鉄の成分が還元して青色を呈する磁器をいう。南宋の龍泉窯のものが最も美しく、我が国の茶人の間ではこれを砧手、やや黄味を帯びた厚い作りの元・明代のものを天竜寺手、透明度の強い明末以降のものを七官手とよんでいる。  この塔は、龍泉窯系の七官手で、奥に如来・菩薩・天部と思われる仏が、上二階には定印を結んで結跏趺坐【けっかふざ】し、下の階は右手触地印、左手は膝の上に置く倚像、いずれも左右に僧形の立像を配し、また各階の左右に竜を配す。寄棟の屋根の中央に玉を飾る。  「法雲雑記便覧」によれば、第29世獅林碩億が江戸の磯田氏から譲られたとある。

石造五輪塔

  花崗岩製で、地輪は割合に大きく、その上の水輪はやや押しつぶされた球状である。火輪は軒上端に反りを持たせるが、下端にわずかに反りがある。空・風輪は比較的大きく、空輪と風輪との間は溝状の窪みを持つ。  無銘ではあるが、中世五輪塔の様式を考える上で貴重な資料である。室町時代末期の作と考えられる。

石造五輪塔

  花崗岩製で空・風輪がやや大きいが、全体の調和も取れ、安定感がある。  地輪正面には「功徳主頭白上人 永正十二天二月三日 大工本郷」、向かって左側面には「逆修」と数名の法名が刻まれている。永正十二年は戦国時代、西暦1515年である。在銘の塔として貴重である。  頭白上人は、当地で賊に殺された母から生まれ、生来頭髪が白かったといわれる。文明年間(1469~87)廻国僧として、東海村の村松虚空蔵堂の再建を始め、各地に足跡を残している。一説に、小田氏の一族で、太田の極楽寺開山虚海、享禄元年(1528)3月1日没といわれる。

石造五輪塔

  密教では、宇宙は地水火風空の五大によって構成されるとし、万物に輪円具足(充満)しているので輪をつけてよぶ。これを下から地輪(立方体)・水輪(球)・火輪(四角錐)・風輪(半球)・空輪(宝珠)と積み上げてあらわしたものが五輪塔である。  この五輪塔は、花崗岩製で基壇には反花【かえりばな】が配され、その下に格狭間【こうざま】があり蓮華模様が彫られている。地輪の高さは良く、水輪も力がみなぎっている。火輪の屋根の勾配はゆるく、軒反りも力強くゆったりとしている。風・空輪の形もよく、全体として均斉のとれた美しい五輪塔である。製作は鎌倉末期と推定されている。

石造燈籠

  材質は花崗岩製で、日枝神社境内にある。 基礎は円形で、複弁の反花が彫られる。竿には、上下と中央に三帯の節があり、縦に「永正八天(1511)辛未十二月二十日」の紀年銘がある。  中台は六角形で下部に単弁の請花があり、各面には格狭間が彫られている。 笠の蕨手は1つを除いて欠損し、笠は背が高く降棟も見られない。宝珠部は葱花状を呈する。 紀年銘を有し、年代の基準となる石燈籠である。

川口町

 川口町(道成寺の万度〔大釣鐘、般若、T字型の棒〕、囃子屋台、帆柱の五色の吹流し)

川口町~中城町

 川口町(帆柱の五色吹流し引物大万度)、中城町(花・うちわの万度、桃太郎の万度)

前野家住宅

  前野家は、代々名主を務めた旧家で、主屋のほかに長屋門・土蔵・納屋等の付属棟も今に残る。  この住宅は左方を土間とした直屋【すごや】型の農家である。元は桁行9間の半分の4.5間を土間、残り4.5間を田の字型に4室に区画して居住部としていた。土間寄り2.5間を広間と台所、残り2間を座敷と納戸境に床の間を設ける。居住部の全面が、かつては竹すのこ天井であったという。明治期に修理を加え、一部柱の切除をはじめ間取りも変更を受けているが、主体構造はよく保たれている。  文化3年(1806)の『家普請付留覚帳』が残り、住宅の建築年代が明らかであることが大変貴重である。  

足踏脱穀機

 足踏みの板を踏むと胴が回転する。両手で持った稲束を回転する胴にあてると、稲穂が歯にあたって籾を落としていく。

太刀 銘 恒次

  鎬造【しのぎづくり】、庵棟【いおりむね】、身幅やや細め、鎬幅狭く、元幅と先幅に目立って開きあり、腰反り高く踏張りつき、先に行っての反りやや緩やかとなり、小鋒【こきっさき】。鍛えは小板目に杢【もく】肌交じり、総じて肌目立ち、地沸【じにえ】つき、地斑【じふ】交じり、地景入り、肌縮緬状を呈す。刃文は直刃調に小乱れ、小足入り、匂口締りごころに小沸つく。帽子は直に小丸。茎は生ぶなれども先切り(尻を僅かに詰め)、鑢目大筋違【やすりめおおすじかい】、目釘孔2。恒次は備中古青江の刀工で、後鳥羽上皇の番鍛冶(24人)の1人である。本太刀は古青江の典型的な作域を示し、古朴で深い味わいを醸成している。 佩裏【はきうら】に作者銘をきるのも特色である。

太刀 銘 守家造

  鎬造【しのぎづくり】、庵棟【いおりむね】。磨上げのため反りやや浅く、中鋒【ちゅうきっさき】。鍛えは小板目肌つみ、僅かに大肌交じり、地沸【じにえ】細かにつき、乱れ映り鮮明に立つ。刃文は丁子に蛙子・互の目・尖り刃など交じり、華やかに乱れて変化がある。飛焼入り、佩裏【はきうら】は直刃調で穏やか。総じて足・葉よく入り、匂勝ち小沸つき、細かな砂流しかかり、匂口明るく冴える。帽子は乱れ込み、先尖りごころに僅かに返る。茎は磨上げ、先切り、鑢目筋違【やすりめすじかい】、目釘孔4。  守家(初代)は、長船の隣の畠田住とされるが、「長船住」の銘もあるので、畠田は長船村の字という説や、晩年に畠田派の守家・眞守が、長船派に吸収されたとする説もある。制作年代は鎌倉初期。  

太刀 銘 信房作

  鎬造【しのぎづくり】、庵棟【いおりむね】。身幅細く、磨上げながらも腰反り高く、小鋒【こきっさき】。鍛えは板目に杢【もく】交じり、肌立ちごころに地沸【じにえ】つき、地景入り、淡く地斑【じふ】映り立つ。刃文は直調浅く湾れごころに小乱れ、小丁子交じり、小足・葉入り、砂流し・金筋かかり、小沸厚く付く。帽子は湾れごころに先掃きかける。佩表【はきおもて】に丸止めの腰樋。茎は磨上げ、先切り、鑢目【やすりめ】浅い勝手下り、目釘孔4(うち2つを埋める)。  信房は備前の刀工で、後鳥羽上皇から鍛冶の総長者に任じられたといわれる。制作年代は鎌倉初期。古備前より時代を下げ、福岡一文字の古一文字信房とする見解もある。

太刀(銘 国貞)

  鎬造【しのぎづくり】、庵棟。腰反り高く踏ん張りあり、中鋒【ちゅうきっさき】。鍛えは板目地、沸つき、乱れ映り立つ。刃文は下半は小乱れ、上半は丁子乱れとなり、足・葉入り、金筋入り、総体に染みごころがある。帽子は表裏とも乱れて先焼詰に近い。茎は僅かに磨上げて先切り、鑢目【やすりめ】は勝手下りで、目釘孔3。佩【はき】表元孔上棟寄りに細鏨の二字銘がある。  国貞は鎌倉中期の備前の刀工である。この太刀はやや研ぎ減りしているが、同時代同派の特色をよく残す。とくに有銘の作刀は極めて少なく、貴重である。

太刀(銘 来橘光定)

  鎬造【しのぎづくり】、丸棟。中反り高く、中鋒【ちゅうきっさき】延びごころ。鍛えは板目で綾杉肌立ち、白気ごころがある。刃文は細直刃、浅く湾れて小沸つき、匂口沈む。帽子は僅かに湾れて先は小丸に返る。表腰に梵字、裏腰の鎬筋に素剣の彫物がある。茎は生ぶ。 表に「南無鹿島大明神常州住人来橘光定」、裏に「遍照大勝金剛王 嘉慶二年辰□□日」の銘がある。嘉慶2年は西暦1388年である。常陸の国の作刀であるばかりでなく、ほかに同銘の作を見ず、地刃ともに健全で、資料としても貴重である。

堆朱硯箱

 表面に漆を何層にも塗り重ね、その漆の層を刀で掘ってレリーフ状に繊細な文様が表わされた、堆朱の硯箱である。土浦藩士安藤家伝来の品。安藤家は、代々権兵衛を襲名し、二代権兵衛以降、基本的に土浦詰め藩士として幕末まで土屋家に仕えた。

大町

 大町(囃子と踊りの引屋台)

大町

 大町(松の万度、蜃気楼の万度、囃子と踊りの引屋台)

大般若波羅蜜多経

  略して大般若経ともいい、唐の三蔵法師玄奘【さんぞうほうしげんじょう】の訳で600巻からなる。般若は悟りの智恵、波羅蜜多はその完成と悟りの世界への到達の意で、大般若経はその悟りの世界をの思想で説く経典である。わが国では大般若経を供養することは無上の功徳とされ、護国除災のため経典読誦【きょうてんどくじゅ】が盛んに行われた。  この大般若経はもと沖宿の神宮寺にあったが、廃寺によってこの寺に移されたという。経文は書き写されたもので、書体は楷書と行書を交えている。第8巻の奥書には「承安五年」(1175)とある。

谷文晁画 関思亮賛「墨梅図」

 関思亮は、書を持って土屋家に仕えた関家の3代目克明の実子だが、4代目を継がず29歳で逝去。本作品は、思亮が文晁の墨梅図に七言絶句「妙画工意不工俗 老子見画只尋香 未応塗抹相斯得 政自不為時世粧」をしたためたもの。早世した思亮の希少な作品。

短刀 銘 国光

  平造【ひらづくり】、三つ棟。内反りのついた気品ある姿態である。鍛えは小板目肌よく錬れ、流れ肌交じり、地沸【じにえ】厚く敷き、地景頻りに入り、沸映り立ち、金色冴える。刃に沿って幽かにごく細い直状の映り立つ。刃文は中直刃、匂口締りごころに、きらめく小沸よくつき、金筋入り、ところどころの島刃風の沸筋あり、表の区際【まちぎわ】を焼き込み、匂口明るく冴える。帽子は小丸に先僅かに掃きかけて返り、この部分一段と沸強く輝き、地の方へ細く湯走りごころに零れる。茎は生ぶで振袖形、先栗尻、鑢目【やすりめ】浅い勝手り、目釘孔2(うち1を埋める)。    新藤五国光は粟田口派の作風を基盤に、更にいっそう地刃に沸を厚く敷き、地景金筋の働きを顕著に表現している。鎌倉末期の作。

短刀 銘 筑州住行弘

 平造【ひらづくり】、三つ棟、小振りで僅かに内反り、重ねはやや厚い。鍛えは板目に杢【もく】交じり、刃寄りに流れ、地沸【じにえ】厚くつき、地景【ちけい】入り、よく練れて、金色明るい。刃文は小湾【このた】れに互【ぐ】の目、尖り刃風交じり、フクラあたりは逆がかり、足入り、匂い深く小沸よくつき、下半砂流【すなが】し・金筋・ほつれなどかかり、区下【まちした】は焼込み風となり、匂口【においくち】冴える。帽子は乱れ込み突き上げて先尖り、表裏とも返り深く焼き下げる。茎は生【う】ぶ、先栗尻、鑢目筋違【やすりめすじかい】、目釘孔1。作者行弘は筑前の左(大佐と呼ばれる)の門人。裏銘に「観応元年八月日」とある。観応元年は、西暦1350年である。この短刀は、地刃頗る健全味あり、銘も古雅にして、この一派中の優品である。土浦藩主土屋家の旧蔵品である。

短刀 銘 筑州住行弘/観応元年八月日

 筑前国左文字派の行弘の作。行弘有銘の作は極めて少なく、その上年紀のあるものはこの短刀だけであろう。地刃健全であり、左一門の研究資料としても貴重である。

竹繊払子

  この払子【ほっす】は、毛束部分を竹の繊維にしたものである。柄心は竹製で朱の絹地で覆い、植物繊維を巻き込む。柄元は棕櫚【しゅろ】の皮の繊維を撚って遊環を作り、柄の中程に2本の細長い紐を結びつける。縁は棕櫚の皮の繊維の紐で軍配の形に作り、内側を植物繊維であわじ結びに編む。毛束は軍配状の縁の先端から12条につけている。  この払子を納めた箱の蓋裏墨書によれば、水戸下市の信者からの寄進であり、元代末期ないし明時代のものとされる。

中城町

 中城町(桃太郎の万度、花車、桃太郎の母)

中城町~田宿町

 中城町(桃太郎の母は立場にて長唄所作、囃子の底抜け屋台?)、田宿町(花の万度、子供相撲万度、土俵入りの所作)

中町

 中町(朝鮮通信使の仮装行列)

中町

 中町(朝鮮通信使の仮装行列)

中町

 中町(朝鮮通信使の仮装行列)

中町~田町~横町

 中町(朝鮮通信使の仮装行列)、田町(花の万度・「去暮難渋ニ付万度斗リニ御座候」)、横町(大名行列) 田町では前年の暮れに火事があったため、行列には万度だけを参加させている。出し物であった「弥勒の出し」は町内に飾り付け置いた。

中納言局(東福門院女官)筆 消息

 東福門院は徳川秀忠の娘で、家光の兄弟である。元和6年に入内し、寛永元年に後水尾天皇の中宮となった。本作品は、中納言局(下冷泉為将の女性)の手紙で、幕府へ赴く道中に具合が悪くなった際、家光が土屋但馬守を遣わして、養生し快気後登城するようにと伝えてきた、このことを東福門院へ知らせて欲しい、と東福門院に仕える女性に伝えたもの。土屋但馬守は、土浦藩土屋家初代藩主数直のことである。

虫掛村

 露払いの獅子、囃子引屋台(大太鼓・締太鼓(2)、笛、鼓)、天王の神輿の行列(のぼり、矛、太鼓)

虫掛村

 虫掛村(祭礼行列の露払いの獅子) 文化9年(1812)は惣町大祭であったことから、城下町の全ての町組が参加をした。そのため、ふだんの祇園祭では当番となった町組がつとめる獅子舞を、在方の虫掛村が務めている。

虫掛村、殿里村

 神輿渡御(矛、太鼓、榊、天狗、神職、傘、神輿)、神輿は殿里の人たちが担ぐとされる

鏑木梅渓画 関其寧賛「孔子図」

 本作品は、孔子が周廟において子路ら2人の弟子に「宥坐之器(身近において生活の戒めとする道具)」をとおして中庸の大切さを説く場面を描く。其寧と梅渓は同年代で、江戸に本拠を置いた其寧の文人交流の一端を示す。

田下駄

 湿田の深い田んぼで使用された履物。稲刈りのときには、これを履いて刈り取った稲の株を歩きながら作業をした。 収集者:土浦市郷土資料館 収集地:土浦市中高津

田宮ばやし

  田宮ばやしは、田宮梶ノ宮神社へ奉納されるお囃子である。 楽器は大太鼓、小太鼓、大鼓、小鼓、横笛などを使う。演目は三切り、大杉ばやし、かっころばし、八車【やぐるま】、かどつけ、かえり、疱瘡【ほうそう】ばやしの七種である。  鉦を用いないことが演奏上の特徴である。また疱瘡ばやしの音律は、近在に例がない田宮独特のものである。

田宮ばやし  茨城県指定無形民俗文化財 (本編)

 土浦市田宮地区に伝わる「田宮ばやし」は疱瘡ばやしなど7つの曲目で構成され、主に疫病退散を願って演奏されるものです。この映像は、田宮地区の祇園祭で3日間にわたり演奏される「田宮ばやし」を中心に、田宮地区の保存伝承活動の取り組みをご紹介するものです。

田舟

 湿田で使用する舟。稲刈りのときに、刈りとった稲を田舟の上で束ねて、穂が濡れたり汚れたりしないようにして運搬をした。 収集者:土浦市郷土資料館 収集地:不明

田舟

 湿田で使用する舟。稲刈りのときに、刈りとった稲を田舟の上で束ねて、穂が濡れたり汚れたりしないようにして運搬をした。 収集地:土浦市菅谷町

田舟

 湿田で使用する舟。稲刈りのときに、刈りとった稲を田舟の上で束ねて、穂が濡れたり汚れたりしないようにして運搬をした。土浦市矢作地区の農家が使用したもので、桜川沿いの低地(飯田地区側)の深田で使用した。耕地整理が行われてからは使用されなくなった。 収集地:土浦市矢作

田宿町

 田宿町(子供角力万度、米俵を積んだ牛車の万度、囃子底抜屋台)

田宿町~裏町

 田宿町(囃子は底抜屋台)、裏町(花の万度)、西門・田中(折鶴の万度)

田中西門~大町

 西門・田中(大亀を戴いた囃子の引屋台)、大町(花・鯛の子供万度、松・日の若者の万度)

土浦館客室の一部

 明治時代なかごろに、川口川沿いに建築された木造3階建ての旅館ある。土浦館では第二次世界大戦中、戦火を逃れる東京の児童の受け入れも行った(学童疎開)。

土浦館玄関

 土浦館は、明治時代なかごろに川口川沿いに建築された木造3階建ての旅館ある。

土浦館全景

 明治時代なかごろに、川口川沿いに建築された木造3階建ての旅館ある。川口川は河岸として栄え、水運が盛んだった当事の面影がしのばれる。土浦館の絵葉書シリーズには、建物の内部の他、土浦桜川堤の桜や、霞ケ浦海軍航空隊の水上班を写した写真もある。

土浦館庭園の一部

 明治時代なかごろに、川口川沿いに建築された木造3階建ての旅館ある。庭園の一部を被写体としており、渡り廊下がみえる。

土浦館撞球部

 昭和8年(1933)頃の川口川沿いにあった旅館土浦館の撞球部。木造3階建ての本館とは悦に、洋食部と撞球部があった。電灯を灯した室内には、和装の男性や女性が顔をそろえ、洋装の男性2人がキュー(突き棒)を構え、ビリヤードに興じている。水平に横切るストーブの煙突やテーブルに置かれた鳥かごもみえる。

土浦館洋食部

 昭和8年(1933)頃の川口川沿いにあった旅館土浦館の撞球部。木造3階建ての本館とは悦に、洋食部と撞球部があった。

土浦祇園市場の夜景

 祇園町は川口川の埋め立てにより造成され、昭和10年(1935)に町営土浦公営市場の名の下、6月1日に開店した。当事としては珍しい自家発電・自家水道まで備えた近代的商店街であった。昭和11年には6号国道と土浦駅を結ぶ亀城通りが完成し、祇園町はその中心となる商店街として発展した。

土浦城跡及び櫓門

  最初の城主は戦国時代の若泉氏と言われ、菅谷【すげのや】氏が続く。近世には藤井松平・西尾・朽木・土屋・大河内松平と変遷し、貞享4年(1687)土屋が再入部し、幕末に至る。明治維新後は新治県庁・郡役所等が置かれ、昭和に入り本丸・二の丸の一部を公園整備され風致地区となる。  城は三の丸まで環郭式の平城・水城で、別名亀城と呼ぶ。天守はない。平成に入り西櫓・東櫓と土塁上の塀が一部復元された。  櫓門は入母屋・本瓦葺で、本丸にある江戸時代の櫓門では関東地方唯一の現存する遺構である。

土浦神龍寺 全景 

 神龍寺は江戸時代の土屋家の祈祷寺であった。大正時代、住職の秋元梅峯によって、海軍航空隊の殉職者の慰霊と商店街振興のために花火大会が始められた。

土浦神龍寺 梅峯和尚の銅像

 大正時代、住職の秋元梅峰によって、霞ヶ浦海軍航空隊の殉職者の慰霊と、関東大震災後の不況にあえぐ商店街の振興のため、花火大会が始められた。今日に続く「土浦全国花火競技大会」の始まりである。この像は戦時中に供出されたため、現在は新しく胸像が建てられている。

土浦中学校二十周年紀念(校舎正面) 

 土浦中学校は立田町にあったが、真鍋台に新校舎が建設され、明治38年3月に移転した。茨城県技師駒杵勤治により建てられた新校舎は、国の重要文化財に指定されている。

土浦中学校二十周年紀念(校舎裏面) 

 茨城県立土浦中学校(現:茨城県立土浦第一高等学校)は、明治33(1900)年4月1日、茨城県立尋常中学校土浦分校を改称して開校に至った。明治38年の3月にゴシック様式を取り入れた真鍋台の新校舎(写真の建物)に移った。茨城県技師駒杵勤治により建てられた新校舎は、国の重要文化財に指定されている。

土浦中学校二十周年紀念(職員生徒) 

 茨城県立土浦中学校(現:茨城県立土浦第一高等学校)は、明治33(1900)年4月1日、茨城県立尋常中学校土浦分校を改称して開校に至った。明治36年、立田町にて新校舎が整備されるが、同38年の3月にゴシック様式を取り入れた真鍋台の新校舎(写真の建物)に移った。

土浦町 霞月楼

 霞月楼は明治22(1889)年の創業で、土浦を代表する料亭である。霞ヶ浦海軍航空隊に着任した山本五十六ら海軍の幹部仕官もたびたび訪れた。

土浦町 霞月楼

 霞月楼は明治22(1889)年の創業で、土浦を代表する料亭である。霞ヶ浦海軍航空隊に着任した山本五十六ら海軍の幹部仕官もたびたび訪れた。

土浦堤の桜 CHERRY-BROSSOMS OF THE TSUTIURA BANK

 戦前の桜川の花見風景。水郷汽船による観桜汽船の発着場付近とみられる。堤防にも川にも人が多く出ている。貸しボート屋が数軒あり、ボートをこぎながらの花見が人気であった。

土浦堤の桜 CHERRY-BROSSOMS OF THE TSUTIURA BANK

 咲きそろう桜の堤に多くの見物客が行き交っている。桜川堤の桜は航空隊・水郷・筑波山といった周辺の観光資源とともにクローズアップされ、春の土浦の一大イベントとなっていた。春は花見、秋は花火である。

土浦堤の桜 CHERRY-BROSSOMS OF THE TSUTIURA BANK

 桜川堤の花見風景。土浦の料亭「霞月楼」の大きな雪洞【ぼんぼり】がみえる。右手は昭和8年(1933)に架けられた匂橋。匂橋は木橋で、水郷土浦の花見の名所としてにぎわった。

土浦堤の桜 CHERRY-BROSSOMS OF THE TSUTIURA BANK

 満開の堤防を多くの人が行きかっている。昭和7年(19322)には臨水遊歩路が完成し、水際からも桜を楽しめた。正面にかかる橋は、昭和9年に開通した国道6号の土浦橋である。

土浦八景 下田の落雁

 下田は現在の文京町付近の旧町名である。江戸時代に上沼があった場所で、写真の当時は一面の水田であった。具体的な撮影地は不明。

土浦八景 旧城の暮雪

 土浦八景シリーズの一葉。雪の土浦城址。奥に見える建物が櫓門である。手前の土塁上に鐘楼と東櫓があった。

土浦八景 銭亀の夕照

 土浦八景シリーズのひとつ。旧水戸街道にかかる銭亀橋付近からみた桜川の風景。正面の社(森)は大町の道祖神とみられる。

土屋挙直 一行書

 土屋挙直は、水戸藩徳川斉昭の第17男として誕生し、幼名を余七麻呂といった。文久3年11歳で土浦藩土屋家へ養子に入り、明治元年に養父寅直の家督を相続して最後の土浦藩主となった。版籍奉還後は、土浦藩知事に、明治4年7月の廃藩置県後は華族となり、その後東京に住んだ。本作品は、「辛未付秋」(明治4年秋)に挙直が「惟憂国家不礼親戚」としたためた一行書。

土屋挙直一行書「先之労之」

 「先之労之」は論語子路篇にある言葉で、子路が孔子に政治をなすべき道を問うたときの答え。何事も人々に先んじて行い、人々をいたわることという意味である。「乙丑仲冬 源挙直」とあり、乙丑(慶応元年 ※4月7日改元)に土浦藩主であった土屋挙直がしたためたもの。

土屋数直 書状

 土屋数直は、土浦藩土屋家初代藩主。本作は、数直が森川伊兵衛なる人物に充てて出した手紙。中納言(前田利常ヵ)の使者から鷹狩りの獲物である鴨を頂戴してかたじけない、またお茶にお招きくださるとの過分の待遇を受け、すぐにでもご挨拶にうかがいたいが詰番があるので参上できない、くれぐれもお礼を申しあげて欲しいという内容。役職や言葉遣い、中納言が前田利常と推定すると、書状の年代は1626~1629年までの間と推測される。

東崎町

 毛槍?、東崎町(花の万度・棒ささら) 底抜け屋台の中の三匹の獅子には、これを操っているであろう人々の顔がみえる。茨城県中央部にみられる「棒ささら」を描いたものであろう。

東崎町~本町

 東崎町(棒ささら)、本町(魚の子供万度、花・三番叟?の万度、警固) 本町の人数は170余人(子供含む)、警固役30人。

東城寺経塚群

  経塚とは、経典を土中に埋納したところである。  当経塚は、明治23年(1890)に山林所有者が発見し、明治35年(1902)には学術調査が行われた。径4mの塚など12基が点在し、各々雲母片岩で石槨【せっかく】を作る。  保安3年(1122)、天治元年(1124)銘の銅鋳製経筒のほか、経巻(法華経)、和鏡、仏具等多数の埋納品があるが、出土状況は明らかでない。経筒銘文から、天台僧経暹・明覚を勧進僧として、平安末期の豪族常陸平氏多気致幹が壇越【だんおつ】となり、築かれた。  関東地方の代表的な経塚遺跡である。出土品は東京国立博物館が保管している。

東城寺結界石

  結界石は一定の地域を区切る境界石である。ことに受戒や布薩等の儀式を行うために定めた大界・戒場・小界等の限られた地域を摂僧【せっそう】界というが、これを示す標石に「大界外相」と彫られたものである。  この結界石は雲母片岩製で、碑面中央に大きく「大界外相」、右側に「建長五年癸丑」(1253)、左側に「九月二十九日」とある。薬研彫りで浅い。山麓集落内にある他の4基(市指定文化財考古資料第10号)と一連のものであるが、東城寺境内に移された。  他にも鎌倉時代西大寺系律宗の高僧忍性による結界石は、市内宍塚の般若寺(県指定文化財考古資料第6号)、極楽寺跡(つくば市小田)にある。

藤原藤房卿遺跡

  この遺跡は「髪塔塚」とよばれ、藤原(万里小路【までのこうじ】)藤房が落飾した時の髪を埋めた所と伝えられる。塚は広さ10m四方、高さ約2mで塚の前には、三島毅(中洲)撰文の碑がある。  藤房は大納言宣房の子。『太平記』には、元弘の変(1331年)で常陸に流され、小田民部大輔【おだみんぶたいふ】に預けられたとある。その地が藤沢、民部大輔は治久とされるが、「金勝院本」に「民部少輔兼秋」とあり、治久には疑問もある。  建武の新政で帰京した藤房は、上卿として活躍するが、天皇の専制に不満を持ち、出家した。その後の消息は不明で、妙心寺二世授翁宗弼がその人との説もある。

藤森弘庵書 五言絶句「移竹」

 本作品は「今日乗君酔 移来与結鄰 明日君醒処 只須恕酔人 移竹」と五言絶句をしたため、末尾に「移竹」とし、四君子として尊ばれた竹を擬人化して詠んだもの。弘庵の著作「春雨楼詩鈔」に収録されている。弘庵特有のはっきりした肥痩のある、特徴的な行書である。

藤森弘庵書 七言絶句

 本作品は「不知栄達等炊桑 各被仙翁霊一場 若教北宣高臥客 夢認依旧致蒙皇」の七言絶句を弘庵が63歳の時したためたもの。「辛酉」とは文久元年のことで、弘庵が亡くなる前年の書であるが、肥痩のはっきりした特徴のある行書である。

藤森弘庵二行書

 藤森弘庵は、諱を大雅、恭助と称し、字を淳風、粋然、号を弘庵・天山という。「天山」は安政の大獄で中追放を受けた安政6年以降3年間に用いた号である。本作品は「富霞緑映 明月独挙 青松落冷 白雲誰侶」と、独り己が道を貫く心境をしたためたもの。天保5年9月から弘化4年3月までの13年間、土浦藩士として藩校郁文館の教授、郡奉行などを務めた。

銅鐘

  鎌倉時代建治元年(1275)源海上人が大勧進となって作られた。鋳銅製である。鐘は上下帯無文、乳は4段4列、撞座は2個ある。鋳物師は丹治久友・千門重延の2人。丹治久友は鎌倉長谷高徳院の大仏鋳造の一人として知られ、吉野金峯山寺蔵王堂銅鐘のほか多くの作品を残している。この鐘は鎌倉時代の典型的な形を示す名品である。  銘文は陰刻で、次の通り。  「大日本國常州信太庄般若寺    建治元年乙亥八月廿七日乙丑時正第二          大勧進源海    願以此功徳 普及於一切    我等與衆生 皆共成佛道        大工 丹治久友        大工 千門重延」

銅鐘

  小田氏の祖八田知家が三村山清冷院極楽寺の鐘として、建永年間(1206-1207)に作らせたものである。後に藤沢に移され、戦国末期藤沢城落城後、土浦城内に移された。江戸時代には城内本丸に置かれたが、明治17年(1884)極楽寺の後身とされる等覺寺へ移された。  鐘は鋳銅製、上下帯無文で、乳は4段5列、撞座は2個である。県内の古鐘中最古の銘文をもつ。鎌倉時代の鐘として端正な姿の名品である。  銘文は型なめで一部不明だが、次の通り。 「鋳顕極楽寺鐘  奉・・・  大将(軍)・・・   建永・・・筑後入道尊念」

銅製丸鏡

  青銅製で縁は直角式中縁である。  背面は中心部に花文鈕【ちゅう】座を設ける。界圏内区の上部には、対峙する双雀を置き、左右側面から下部にかけては、草花を配している。外区には珠文・鋸歯文・櫛目文など幾何学的な文様を巡らす。界圏を境に、内区は和式文、外区は漢式文と和漢混淆形式である。この形式はまま見受けられる。 室町時代の作と考えられる。

銅造阿弥陀如来立像

  本像は、浄真寺の阿弥陀如来(茨城県指定文化財彫刻第29号)と同様、善光寺式の阿弥陀如来で現存は独尊であるが、三尊像の本尊と思われる。  両手首を除き全体は一鋳である。手首は両袖口に差し込んで、銅釘を通して固定する。鍍金痕跡は無い。低い肉髻【にくけい】と大き目の螺髪【らほつ】等は鎌倉時代後半頃の表現だが、全体に形式の単純化が進む。頭部は大きく、肉付けには硬さがあり、後頭部の螺髪は略される。 これらの特徴から、本像は14世紀の制作と推定される。

銅板十一面観音御正体

  御正体【みしょうたい】とは、御神体・聖体を敬って呼ぶ語で、金属製の鏡や像を御神体またはその本地【ほんじ】仏とし、懸仏【かけぼとけ】として礼拝したものである。  この御正体の仏は三尊形式をとり、中央は十一面観音、両脇侍は薬師如来と阿弥陀如来で、観音は蓮華・錫杖を持つ長谷寺式、薬師は左手に薬壷を持ち、弥陀は定印【じょういん】を結ぶ。3体とも毛彫りの立像、光背は舟形である。  御正体は、肩にくりこみのある宝珠形の銅板を、2本の鈉【ほぞ】で台座に挿し込んである。室町時代の作と推定される。 

日枝神社流鏑馬祭

  日枝神社は、東城寺が比叡山延暦寺を模した事にならい、近江坂本の日枝神社を勧請したもので、山王大権現と称した。祭礼は山ノ荘の平和と五穀豊穣を祈願したもので、現在4月第1日曜日に行われている。  この流鏑馬【やぶさめ】は、村人に害をなした大猿を領主の小神野【おかの】越前守(従羅天【じゅうらてん】)と弓の達人の市川将監【いちかわしょうげん】が退治した伝説を儀式化したものである。祭礼はまず、「ひとつもの」(人身御供)をむかえる使者が立ち、ひとつものが神社に送られると従羅天が馬乗疾走し将監に注進する。神輿【みこし】の渡御【とぎょ】に続いて、将監が馬上から次々と矢をつがえ、大猿になぞらえた的を射る。  室町時代の伝承を基にした物語性をもつ流鏑馬として、全国的に珍しい。

白黒テレビ

 白黒のテレビ。リモコンはなく、ダイヤルを回してチャンネルや音量を選んだ。日本のテレビ放送は昭和28年(1953)に始まったが、当初は値段が高くてなかなか買うことができなかった。

氷冷蔵庫

 上段の扉の中に氷を入れて、下段に入れた食品などを冷やした。上段には溶けた氷の水を排水する溝がある。氷は氷屋から買ってきた。現在の電気冷蔵庫のように食品の保存や保冷に優れていなかったことや、家庭用の氷冷蔵庫は高価であったことから、どこの家でも使用されたものではなかった。昭和30年代に入ると、電気冷蔵庫が普及により使用されなくなった。

表紙

 文化9(1812)年の祭礼の様子を描いたもの。在方の虫掛村の神輿の露払いにはじまる祭礼行列の先頭から最後尾の大町までを描く。祭礼の次第のほか町組の名や参加した人数、出し物の材料などを記しているのが特徴。土浦市指定文化財。 閉じた状態「土浦祭礼之図 国分」

冨岡家住宅

  寄棟造、茅葺の大きな建物である。もとは広間・田の字系の間取りであったが、後世の増改築により平面規模が大きく複雑になり、屋根も大きくなった。唐破風屋根の式台付玄関が付加され、現在の姿となった。小屋組や間取りなどに増改築の跡がよく残り、江戸後期以降建物規模が大きくなった様子がよく分かる貴重な建物である。創建は江戸時代中期頃と思われる。先祖は小田氏の重臣で、近世に帰農したと伝えられ、代々名主も務めている。

武者塚古墳

 武者塚古墳は、桜川下流域の新治台地上に立地する7世紀中ごろの古墳です。墳丘は削平されていましたが、耕作に際して 地下に石棺の存在が推定され、昭和58年(1983)に新治村による村史編纂事業の一環として、筑波大学が発掘調査を行いました。調査の結果、石室は遺体を安置する玄室と副葬品を収めた前室からなり、箱式石棺と横穴式石室を折衷したような独特の形態をしていることが分かりました。石材は筑波山の麓で産出する片岩(筑波変成岩)が使われています。石室は盗掘を受けておらず、多くの副葬品が出土しました。前室からは、銀帯状金具、銀装圭頭大刀、銅装三累環頭大刀、鉄柄銅杓といった金属製品が出土しています。これらの金属製品のなかには、全国的にも類例の少ない貴重な出土品が含まれています。 玄室からは被葬者の頸部付近を中心にメノウ製勾玉、水晶製切子玉、ガラス小玉などの玉類が合計で96点出土しています。また、被葬者の毛髪も出土しており、当時の髪型である「美豆良」が分かる状態での出土は全国で唯一の事例です。 平成26年(2004)と令和4年(2022)に筑波大学考古学研究室が地中レーダー探査と発掘調査を行いました。これらによって、古墳の周りを周る溝(周溝)が直線的に曲がることが確認され、従来考えられていた円墳ではなく、一辺22mから23mの方墳であったことが確かめられました。桜川流域は、古墳時代後期に円墳を築造し、終末期に方墳へと変化をしており、この成果は、武者塚古墳が周辺の終末期古墳と同様の古墳築造の流れを踏襲していたことが判明しました。 現在、武者塚古墳の石室は覆屋の中に保存されており、出土品については上高津貝塚ふるさと歴史の広場に保管されています。

腹掛

 明治30年生まれの土浦町の大工棟梁が使用していた腹掛。

法雲寺文書

  中世文書類で、①聖祐寄進状1通、②足利尊氏書状1通、③証文類1巻、④荘主寮記1巻、⑤法語集2巻の5点を含む。  ①は貞和5年(1349)に尼聖祐から法雲寺への寄進状(添状)で、裏に小田孝朝の加判がある。②は尊氏から復庵宗己への書状(綸旨の添状か)、③は康暦2年(1380)から文明2年(1470)にかけての法春(武田信春か)・小田成治の寄進状、上杉憲方・同朝宗・同清方・法季(木戸範季か)の禁制、法雲寺役人連署証文等、④は嘉吉3・4年(1443・44)と長禄2年(1458)の寺領の年貢納入目録、⑤は正平12年(1357)の無隠元晦書状、ほかに雪庭紹融法語・古先印元法語・御光厳天皇綸旨案・復庵宗己諡号上奏案などである。

本町

 本町(警固、日烏月兎の引物大万度をつけた曳き屋台)

本町~中町

 本町(日烏月兎の引物大万度)、中町(酒樽の万度、朝鮮通信使の仮装行列)

盆綱

 土浦市佐野子では毎年8月13日に盆綱を作る。夕方、子供たちが盆綱をもって墓地に行き、墓地を周回して先祖の霊を乗せ、各家に送り届ける。佐野子の盆綱は、胴体部分となる綱とは別に、竹を芯にして龍の頭を作り出すのが特徴である。口の部分はサンダワラを半分に折って作り出している。

木原老谷書 五言絶句

 木原老谷は土浦藩士で、名を谷蔵、通称を雄吉、字を節夫、諱を元礼といい、老谷は号である。藩校郁文館の分館で藩士の教育にあたるなど、五十嵐愛山、中田平山と並び幕末の土浦藩を支えた人物のひとり。本作品は老谷が「游山寸一月 念頭忘彼我 泉声来乱耳 白雲来奪坐」の五言絶句をしたためたもの。

木造阿弥陀如来坐像

  カヤの寄木造、玉眼、錆󠄀下地漆箔。螺髪【らほつ】は大粒で3段目以上が後補、白毫【びゃくごう】・肉髻【にくけい】・両手・左手袖口・裳先・右膝奥なども後補である。頭・体部とも前後矧ぎ、首は枘【ほぞ】挿し。左肩・左袖口・膝前・右膝奥・右肩・臂・手首は矧ぎ付け、左手首は袖口に差し込む。白毫相を表し、来迎印(上品下生【じょうほんげしょう】)を結び、結跏趺坐【けっかふざ】する。  面相は豊かで引締り、衣文は複雑で彫りも深く、運慶様式である。鎌倉時代の作。内部にある室町時代の小田成治父子による修理の墨書も貴重である。

木造広智上人坐像

  上人は下野(栃木県)の人、鑑真の弟子道忠に学び、弘仁年中上野・下野に巡錫中の最澄から受法し、東国での布教に当たった。寺伝では、常陸講師最仙上人から東城寺の寺務を受け継いだとするが、詳細は不明である。  この像は、ヒノキ又はカヤ材、割矧造、彩色、玉眼、僧形の坐像で、頭・体部一材を前後に矧ぎ、内刳りを施す。下衣・法衣の上に袈裟を掛け、大きく膝前に達する。左手は膝上で掌を上に五指を軽く曲げ、右手は前方に出して掌を内に向け五鈷杵【ごこしょ】を握る。結跏趺坐【けっかふざ】して袖と裳裾を幅広く垂らす。  裳裾裏に、嘉禎三年(1237)正月の造立銘、永仁六年(1298)小田の藤原氏による彩色銘、寛延年間(1748~51)の補修銘の墨書がある。

木造釈迦如来立像

  釈迦は仏教の開祖仏陀(悟れる者の意)のこと。シャカ族出身で、姓はゴータマ、名はシッダルタ(悉達多)。古代インド、紀元前4~3世紀の人である。  この像は寄木造。前面は膝上、背面は両肩から左腕、右袖半ばまでヒノキ材。他はキリ材の後補。螺髪【らほつ】は彫出。肉髻【にくけい】珠・白毫【びゃくごう】・玉眼は水晶。頭は前後矧ぎ、割首。肉身部は朱漆塗り金泥彩、衣部は漆箔仕上げ。手は施無畏印・与願印。鎌倉末~南北朝時代の作。  光背・台座は補作。光背の周縁には宝塔と雲に乗る12如来を配し、台座は彫出の蓮華五重座である。胎内に釈迦堂縁起、万治・享保期の修理の木札などがある。

木造中峰禅師坐像

  ヒノキ材、玉眼、寄木造。頭部は3材を耳の前後で矧ぎ、中間材の下に胸前の1材を足す。体部は前後2材矧ぎで、両肩外側部を矧ぎ、内刳りを施す。肉身部は漆塗、衣部は彩色され、布貼り錆地上に宝相華文や鳳凰文等を、丹で緻密に描く。法衣の上に袈裟を掛け、禅定印を結び、曲彔【きょくろく】に結跏趺坐【けっかふざ】する。両膝部は横木1材で、これに裳裾を3段に矧ぎ付け、両袖裾側面を当て、両手首を矧ぎ付ける。  禅師は復庵和尚によって開山第一祖に勧請された。この像が祖師堂内に安置されているのはそのためである。衣紋の様式から見て、南北朝時代の作であろう。

木造薬師如来坐像

  薬師如来は薬師瑠璃光如来・大医王仏ともいわれ、東方浄瑠璃世界の教主で、病や苦悩を救う仏として信仰される。  この薬師如来像は、カヤの寄木造、漆箔であるが、箔は剥落している。目は彫眼である。頭・体とも前後 矧【は】ぎ、三道下で割首し、左肩外側も矧ぐ。右手は肩・肘・手首を矧ぎ付ける。左手は袖を矧ぎ、手首を挿す。膝前は1材を横に矧ぐが、裳先は欠損している。肉髻【にくけい】は大きく、螺髪【らほつ】は細かく整っている。  平安後期の作で定朝様式であるが、地方的特色も見られる。真言宗常福寺の本尊である。

木造薬師如来立像

  ヒノキの素地の一木造。両袖先・両手・両足先は挿し込み、また両袖先・両手・光背・台座は後補である。髪型が縄状の渦巻形に作られている点に、清凉寺式釈迦如来像の影響が見られる。鎌倉末~南北朝時代の作である。

木造薬師如来脇侍三尊像

  三尊ともヒノキの寄木造、玉眼。  薬師如来像は坐像。頭・体とも前後矧ぎ、首は枘挿し。肩・右肱・手首も矧ぎ、右手は施無畏印、左手に薬壷(後補)を持つが、左手の指先は欠失している。袈裟の右肩をはずす偏袒右肩【へんたんうけん】の形で結跏趺坐【けっかふざ】する。面・胸・両手の金箔や衣の朱彩は後補である。  日光像は立像で、右肘先を欠き、左手は垂れて、腰を僅かに捻る。月光【がっこう】像は日光と左右反対の姿である。衣は朱彩。脇侍の宝髻や三尊の光背・台座は後補である。  鎌倉時代の地方様式を踏襲するが、彫法が形式的で、南北朝時代(14世紀)の作とみられる。

矢口家住宅

 水戸街道に面した土蔵造で、店蔵・袖蔵・元蔵と称する3蔵より構成される。いずれも二階建で、店蔵は店と居室からなり、袖蔵に接続している。元蔵は離れている。土浦では天保12年(1841)9月12日の大火後、町屋に土蔵造と瓦葺屋根が出現し、矢口家住宅はその代表的な建物である。  付けたりの家相図は天保9年(1838)・弘化3年(1846)・同4年(1847)・文久4年(1864)・明治45年(1912)・大正5年(1916)、その他年不明の7枚があり、間取等建物の変遷する様子がよく分かり貴重である。

蓮掘り鋤

 現在、霞ケ浦周辺の蓮田では、ジェットポンプで土壌に水圧をかけてレンコンを収穫する方法(水掘り)がとられている。しかし、ポンプが導入される以前は、水を抜いた蓮田で、手掘りでレンコンを掘り上げていた。レンコン掘り用の鋤は、そうした手掘り時代の道具で、扁平な鋤先の部分で周辺の土を動かして収獲した。

蓮掘り万能

 蓮掘り用の鋤に続いて使用されるようになった、レンコン収獲の道具。水を抜いた蓮田のなかで、周囲の土を除けながら収獲をした。蓮掘り様の万能は1970年頃に土浦の農家の人々がレンコン栽培の先進地である九州で入手して持ち帰り、これを阿見町の鍛冶屋に頼んで製作してもらい普及するようになった。鋤にくらべて取り扱いが容易で作業効率はあがったが、水圧ポンプの普及により使用されなくなった。

蓮掘り万能(再現)

 蓮掘り用の鋤に続いて使用されるようになった、レンコン収獲の道具。水を抜いた蓮田のなかで、周囲の土を除けながら収獲をした。蓮掘り様の万能は1970年頃に土浦の農家の人々がレンコン栽培の先進地である九州で入手して持ち帰り、これを阿見町の鍛冶屋に頼んで製作してもらい普及するようになった。鋤にくらべて取り扱いが容易で作業効率はあがったが、水圧ポンプの普及により使用されなくなった。 粘質土と砂質土で刃の幅が異なり、土質によって使い分けた。

六地蔵石幢

  花崗岩製の石幢。笠が厚く宝珠は大きく、竿は太く短い特徴をもつ。  基礎には八葉の反花【かえりばな】座を置き、竿の上・中・下に節が設けられる。中台は六角で、側面に格狭間は無く、下部に請花を彫る。龕【がん】部は六角で、各面に地蔵像が浮彫られる。笠は厚く龕部に合わせて蕨手【わらびて】を設ける。宝珠部は大きめである。  筑波地方にみられる六地蔵石幢の特色をよく表している。製作は室町時代末期と推測される。

六地蔵石幢

  花崗岩製で、龕【がん】部六面に地蔵像が彫られている。現在、東城寺境内の池の中島に立つ。  構造は下部より基礎・竿・中台・龕部・笠・宝珠からなる。基礎には反花【かえりばな】座を置き、やや太めの竿には節が三帯設けられる。中台は六角形で、下部に二重蓮弁の請花を彫る。小振りの笠はやや厚く、蕨手が巻き上がる。  制作は室町時代後期から安土桃山時代にかけてと推定される。

棕毛払子

  払子【ほっす】とは、古代インドにおいて柄先に獣毛等の毛束を付けて虫や蚊を払ったものを、後に仏教僧侶の威儀を正す法具となり、特に禅僧の間で流行したものである。  この払子は、毛束を棕櫚の皮の繊維で作ったものである。柄には波文・竜・草花文等が浮彫りされている。 珂月禅師から贈られた禅版(市指定文化財工芸品第52号)と共に箱に納められており、中国元代の作で中峰禅師の所持と伝えられるが、法雲寺の由緒・寺宝等を記した「法雲雑記便覧」には記載がなく、伝来の経緯等については不明である。

鐃の鋳型溶笵

  密教法具銅鐃【みっきょうほうぐどうにょう】の鋳型である。  鐃は金剛鈴に先行する法具で、奈良時代から江戸時代まで用いられた。密教と神仏習合思想のもとに存在したと考えられている。  この鋳型は土製で、外型前後の合せ型の一面である。鈴身は無文で、把は棒状につくる。把端は二重の環を設け、環上が湯口と思われる。日枝神社境内付近の畑から出土したと伝えられる。  銅鐃の鋳型溶笵は全国的に見ても類例はほとんどなく貴重である。鎌倉時代のものと考えられる。
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